[近現代の石下]

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長塚節の生家

 徳川幕府が崩壊して明治新政府の統治が開始されると、石下地方は藩領域には属さず幕府直轄領や旗本領であったから、早くも新政府の支配するところとなった。常総地方には常陸知県事・下総知県事がおかれ、その役所が治安維持や徴税等に当ることになったとはいえ、旧幕府時代の慣習から容易に転換できるものではなかった。
 明治二年従来の常陸知県事管下が若森県に、下総知県事管下が葛飾県になったが、石下地方が所属した岡田・豊田郡は旧下総国ではあったが、筑波郡大曾根村若森に役所が置かれた若森県管下となった。そして旧知行地ごとの体制を一つにまとめる気運が出て、早くも本石下村などではその動きがみられた。同年末には本石下、中石下、上石下、新石下、若宮戸、原宿、原、小保川、館方、豊田、本豊田、曲田、収納谷、平内、山口、三坂、東野原、大房など一八か村が、旧幕府時代と同様に寄場組合を命じられたのは、旧体制の名残りであるとともに、やがてこれらが一つにまとまることを示唆するものであった。
 明治四年(一八七一)七月の廃藩置県によって、地方の行政組織が大きく変化した。同年十一月には全国が三府七二県となったが、この結果現在の茨城県域には茨城県をはじめ新治県と印旛県が存在し、石下地方はすべて印旛県管下となった。ところが同六年六月印旛県は廃止となり、木更津県と合併して千葉県が誕生すると、石下地方は千葉県管下に属することとなった。当時千葉県は支庁を猿島郡境に置いたから、当地方の事務手続きは境支庁扱いとなった。
 明治八年五月新治県が廃止されて茨城県と合併し、茨城県と千葉県との間で県域の変更が行なわれて、千葉県下の旧下総国のうち主として利根川以北の地が茨城県域となった。広域の茨城県が成立したわけで、この結果石下地方は千葉県から茨城県にかわったのである。
 明治新政府は成立当初地方の支配体制に、大区・小区制を採用したから、明治五年には豊田郡下の当地方は第五大区となった。そして千葉県時代には第一六大区となったが、さらに茨城県下となってからは第七大区に所属した。小区制では当地方は最終的には四つの小区に分かれていたが、この制度は明治十一年で終った。
 その後地方行政組織に連合村制がとられるが、明治十五年当時当地方は本石下村、新石下村、豊田村、古間木村、国生村、鴻ノ山村、尾崎村、原宿村の八連合村管下となった。そして同十七年にはこれがさらに本石下村、新石下村、皆葉村、鴻ノ山村の四連合村にまとめられた。明治二十二年(一八八九)に地方制度上画期的な市町村制が実施されるが、この時当地方は三四の村・新田が合併され、石下村、豊田村、岡田村、飯沼村、玉村の五か村となったのである。明治三十年九月一日石下村は石下町となるが、他の四か村に変化はなく、一町四か村の状況は昭和まで続いた。
 第二次大戦後地方行政の上では大きな変化がみられた。地方自治制がとられたことと、町村合併により町村の広域化が図られたことである。明治二十二年の市町村制と異なり、戦後の町村合併は地域住民の意志を尊重して実施したことである。そのこともあって地域によっては、合併にからむ紛争もあったが、当地方ではさしたる問題もなく昭和二十九年十月一日には一町四か村が合併して、新しい石下町が誕生し現在に至っている。
 明治以降当地方の社会・経済の発展の上で交通運輸の変化に注目しなければならない。江戸時代から明治中期ごろまでにかけて、当地方の交通機関は何といっても鬼怒川の舟運であった。当地方の農産物や織物等の特産物が、鬼怒川を利用しての舟運によって東京方面に運ばれ、またその逆の物資の流通もみられたのである。しかし明治二十二年水戸・小山間の水戸線が開通し、同三十一年には現在の常磐線が全通するに及んで、陸上交通の変化は地域社会の経済活動を大きく変化させた。これまでの舟運は急速におとろえ、代って鉄道による人びとの往来と物資輸送が急速にのびていった。
 このためこれまで河岸を中心に経済活動の活発であった石下地方は、同じく経済的な発展をみていた隣の水海道地方とともに、地盤沈下を免れなかったのである。ようやく大正二年(一九一三)十一月常総鉄道が開通したが、国鉄線とは異なり私鉄線であったことと、沿線地域に大きな町村も少なかったこともあって、急速な発展は望めなかった。第二次大戦後の混乱期をすぎて、戦中・戦後の疎開により、農村に移住していた人びとが東京方面に戻り、やがて人口の減少期を迎えたことと、戦後の自動車交通の発展により鉄道交通は変貌をとげつつあるが、筑波の研究学園都市の整備と相まって、新しい交通機関への期待が高まってきているのである。
 産業の面での石下は織物と醸造で早くから知られた。とくに石下結城紬は江戸時代からの地場産業であるが、明治以降現代まで幾多の変遷をみながら続いてきている。明治二十六年には同業組合である結城郡織物丸石組合が結成されたが、当時の当地方の織高は年九万反であったという。織高は同二十年代末には最高三三万余反にも達したが、それ以降は概して一〇万反以下の数字となった。昭和期に入って不景気の続くなかでも七万反前後を維持したものの、第二次大戦が開始され物資統制が厳しくなると、その生産高は極端に減少した。しかし大戦後の国民生活の変化は、当地方の織物業に大きな影響をあたえた。和服着用の減少傾向は、織物業をして和服以外の道を模索させることとなって、今日に至っている。醸造業も近世以来の醬油生産はなく、酒造業のみとなっている。また当地方の農業には特筆すべきことがらもないが、幕末・明治期以来の地主経営が、戦後の農地改革とともに没落したことは、他地域と変りがない。近世以来の飯沼地区の新田開発が、明治以降もその整備が続けられ、今日では排水設備の充実と相まって、豊かな水田地帯となっている。なお当地方の水田耕作に、江連用水の果している役割も注目されよう。
 石下の教育・文化の面で注目されるものに、大正中期以降に行なわれた石下の自由教育がある。大正デモクラシーといわれた社会状況のもとで、当地方に生活実践を通して教育を試みる、自由教育の動きがあった。茨城県下の教育界に大きな波紋をあたえたものであったが、そのような動きも時代の流れの中で長くは続かなかった。しかし当地方を中心に県西地方に、その影響は大であった。また文学界で国生出身の長塚節の活躍は、県内では下妻の横瀬夜雨、北茨城の野口雨情とともに注目され、名作「土」とともに広く知られている。