印旛県は結城、岡田、豊田、猿島、葛飾、相馬、千葉、埴生、印旛の九郡よりなり、現在の千葉県域にまたがる地域で、県庁は初め葛飾郡本行徳村(現千葉県市川市)に置かれたが、のち加村(現千葉県流山市)に移された。この廃藩置県の際当地方に存在した村・新田をみると、次のとおりである。
上石下村 | 中石下村 | 本石下村 | 妙見沼新田 | 新石下村 | 大房村 | 東野原村 |
平内村 | 山口村 | 収納谷村 | 曲田村 | 本豊田村 | 豊田村 | 館方村 |
蓮柄沼新田 | 杉山村新田 | 向石下村新田 | 蔵持村新田 | 蔵持村 | 向石下村 | 杉山村 |
篠山村 | 国生村 | 岡田新田 | 中沼新田 | 鴻ノ山村 | 鴻ノ山村新田 | 馬場村 |
馬場村新田 | 栗山新田 | 大沢新田 | 左平太新田 | 孫兵衛新田 | 崎房村 | 古間木村 |
古間木新田 | 古間木沼新田 | 小保川村 | 原宿村 | 若宮戸村 | 原村 | 羽子村 |
印旛県管下になって、まず行なわれた大事業は戸籍調査である。旧幕府時代には村ごとに「宗門人別帳」が作成されて、村内の住民が宗派・寺ごとに掌握されていたが、新しい時代になって明治五年二月には、各地に係官が派遣されて戸籍の調査が行なわれた。後述するようにすでに郡が大区となり、その下に小区が設けられていたが、小区には戸長と数名の副戸長がおかれ、彼らを中心に戸籍が作成された。明治五年の干支をもって「壬申(じんしん)戸籍」とよばれるのがこれである。
また明治五年には従来の名主・組頭などの名称が廃止された。九月十五日付をもって次のような指令が出されている(「万控帳」長塚幹之助家文書)。
印旛県ニて名主組頭御廃止シ、御探索之上区々村々呼出シ、元里正ヲ副戸長ト被二仰付一候、組頭之如キ
之者立会人ト被二仰付一候、左ニ区内え
戸長頭取 戸長 副戸長 立会人
印旛県の時代も長くは続かなかった。政府が県の改廃・県域の統合を行なったからで、明治六年(一八七三)六月印旛県は廃止され、木更津県と合併して新たに千葉県が成立する。つまり印旛県時代は一年八か月で、石下地方は今度は千葉県管下に属することになった。千葉県では地方の統治機関として支庁を安房郡北条と猿島郡境に置いた。したがって当地方の事務手続などは境支庁取扱いとなったのである。翌年には治安・警察の任務を司る取締所が各地に設置されたが、これが水海道にも設置されたから、こことの連絡も行なわれるようになった。
この千葉県管下の明治六年八月四日、本石下村の地主吉原八右衛門を代表として、蓮柄沼新田の本石下村への合併が願い出されている(「無民家新田本村合併願」新井清家文書)。
乍恐以二書付一奉二願上一候
第十六大区四小区豊田郡本石下村、小前村役人惣代、副戸長新井惣左衛門外壱人奉二申上一候、私共
村方地先蓮柄沼新田之義は、当百弐拾八ケ年前御高入相成、反別弐町三反壱畝三歩私村方八右衛門受
被二申付一進退罷在候処、文化度ニ至リ村方八右衛門より五ケ村新田半蔵方え売渡、同人より親類続
を以豊田村又五郎え又売致し、同人所持罷在候処、今般地券御施行ニ付、明細調帳之義も蓮柄沼新田、
本石下村八右衛門受と別冊ニ相認メ、区長新井五郎左衛門奥書を以奉二差上一候処、無民家新田は本村
合併被二申付一候節、私共村方えは一応詰事も無レ之、豊田村役人のみ罷出何様奉二申上一候哉、
同村之合併被二申付一候趣此節風聞承り候故、蓮柄沼新田之内本石下村八右衛門受候分は私共村方地
先、殊ニ先年書類御検地も有レ之義故、当村合併ニ御調査願上度候間願書調印致シ候、右候様再応談
合仕候得共、御役所御呼出シ上合併被二申付一候義故、最早差除候様相成兼、豊田村地内と可二心
得一抔申募リ更々承知不レ致、左候得は向後悪水落方并諸事不都合出来仕候義ニて、村方は不レ及レ申
西郷田方地窪之村々は一同難渋仕候は眼前、殊ニ当地至は何方之義ニ所持有之候共、本村之義は本石下村
と奉レ存候間、何卒出格之以二御仁恤一私共村方え合併被二申付一候様御調査シ、御採用偏ニ奉二願上一候
以上
蓮柄沼新田は開墾以来、その田地が数人の所有者を経て移動したが、もともとは本石下村に付属するものであり、また周囲もそのように思ってきたのであるから、この人家のない田地を本石下村に合併して欲しいというもので、これが千葉県令柴原和宛に提出されたのである。
明治八年(一八七五)五月新治県が廃止されて茨城県と合併し、茨城県と千葉県との間に県域の変更が行なわれた。広域の茨城県(現在の茨城県にほぼ同じ)が成立したわけで、これまで千葉県に属していた旧下総国のうち主として利根川以北の地は茨城県域に編入された。これによって石下地方は若森県から印旛県、さらに千葉県へと変った歩みに終止符をうち、茨城県として固定することになったのである。
Ⅰ-3図 蓮柄沼新田地区風景