郡長をめぐる争い

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明治十三年前後各地の民権政社を中心に国会開設を求めての請願運動などが展開されたが、そのころ政治思想の宣伝や普及のために政談演説会が開かれた。前出の県内各地の政社は、それぞれの地区で演説会を開催したがなかでも当地方に最も影響力をもった同舟社や、岩井の喈鳴社などは盛んであった。石下地方でこの種の会合が持たれたか否かについては不明であるが、周辺では結城町と水海道町でさかんに開催されている。とりわけ水海道で明治十一年に行なわれた水海道愛国社の演説会が、茨城県下で最初の演説会であった(『水海道市史』下巻)というが、当然当地方でもこれらの動きに何らかの影響をうけたであろう。ただ民権運動は新聞紙条例・集会条例など、政府の強い弾圧によって一時沈滞化の方向に向うのであった。
 しかし自由民権を求める運動の高まりの中で、各地で郡長と戸長層間に軋轢や対立抗争が起った。郡長が派遣されてくるが地方の実情に疎い者が多く、また権力的な言動が目立つと、郡長公選を求める声が強まっていった。茨城県下で最も早く明治十三年(一八八〇)十月には、結城・岡田・豊田三郡の戸長ら四五名が連署して、県令人見寧に対し「上願書」を提出した。その趣旨は郡長たる者はどんなに適当な人物であるといっても、地域の実情を知らなくては民心を捉えることができない。郡長の器に欠けるといっても、風土人情に通じ、風俗・習慣を熟知した地方の人物の方が適任である。したがって県令は郡長の選任に当って、郡内にそのような人物がいるかどうか、十分に考慮した上で処置して欲しい、というものであった。
 この要望に対して県は規定方針どおり吉田六蔵という人物を任命したから、これに怒った戸長の中には職務上の責任を負い兼ねるとして辞職する者が相次いだ。このため郡役所としてもその役割が果せず苦境に陥った。このことについて「朝野新聞」(明治十三年十一月二十日 第二一六〇号)では、次のように記している。
 
  茨城県下豊田、岡田、結城三郡四十五ケ村連合戸長一同連署して、本郡々長ハ三郡内より選挙ありたき旨
  を出願したりしに、聞届あらざりしことを過日或る新聞に記載ありしが、近頃聞く所に拠れバ戸長飯泉、
  飯岡、松田、古沢、横関、秋葉、国府田の諸氏ハ、該件の聞届けられざる以上ハ迚も事務を取扱ふことハ
  出来難しとて奮然辞職願を差出し、其他の戸長も追々願書を差出すの勢なるより、郡長ハ勿論書記なども
  大いに心配し、自今説諭方に奔走最中なるが結局ハ如何にやとの報あり
 
 このような動きは翌十四年一月になると一層激しくなった。「朝野新聞」(明治十四年一月二十二日 第二二〇三号)ではさらに次のように報じている。
 
  ……戸長、郡書記等の職を辞するもの陸続跡を踵ぎ、昨十二月下旬にハ戸長の職にあるもの十名、又郡役
  所に出勤して事務を取るの書記及び雇吏共合せて僅かに五、六名に過ぎざれバ、郡衙の事務ハ少しも運バ
  ずして、人民ハ之れが為めに迷惑を受くること少なからず、頻りに苦情を唱へて止まざれバ、到底郡長を
  改任するにあらずんバ三郡の平和を得るに道なし迚……
 
 このような事態になって県は吉田郡長を五〇日間在職させた後、辞表を提出させる旨の約束をとりつけ、辞表を提出した戸長・郡書記らの慰留に努めて、やっと事件を解決した。この騒動などは民権運動の展開と相まって起ったもので、このような動きは再び政談演説会等を活発にしていくのであった。明治十四年十二月九日付の「茨城日々新報」(第二二二号)では、本宗道村(現千代川村)での演説会を次のように報じている。
 
  去る三月の夜豊田郡本宗道村にて政談討論演説会あり、討論は県令郡長ヲ公撰セルノ可否。条約改正ヲ各
  国ニ要求スルモ、各国之ヲ肯ンセサルトキ之ヲ奈何スヘキのニ題にて演説は権理論。地方諸君ニ告ク(森
  隆介)地方分権論(木内伊之介)民権論(内田林人)専制ノ治安ヨリハ寧ロ自由ノ擾乱ヲ取レ(森孫四郎)政府
  ヲ設クルノ所以(多賀谷彦四郎)結合論(柴孫二)にして最後に真愛会員の熊谷平三氏ハ学術演説にて、吾人
  ノ目的と云ふヲ演せられ、傍聴百八九十名許ニて婦女子も見えたりと
 
 演説会がさかんに開かれたのは、自由民権思想の広まりにともなって、国会開設を求める気運が高まったことにもよるが、そのほかに経済界の変動による生活環境の悪化が、反政府的行動をもたらした面も考慮される。例えば明治十六年暮ごろには「茨城県岡田郡辺も物価の下落に連れ、何商売も兎角不景気にて、年来質営業をなし居る者の話に、今年ほど流物の多くして買人なきことハ是迄覚えず、実に閉口にて殆ど閉店の姿なり」と報じられているが(「朝野新聞」第三〇四四号)、このころ不景気で庶民が困り、民権政社の運動などに参加する者が多かったのである。同年七月十九日本宗道村において開催された「常総自由運動大懇親会」が、「東ハ水戸、土浦、西ハ結城、北ハ下館等より続々寄り集まりたる数も夥し」(「自由新聞」第三一二号)と報じられたのもその一例である。
 自由民権運動は明治十四年政府が詔勅をもって、一〇年後の国会開設を約束したことにより転機を迎えた。同年自由党が結成され、翌年には立憲改進党が結成された。県下では明治十四年自由党茨城部が結成されて活動しはじめたが、党員の数は多くはなかった。同十七年の党員名簿をみると、豊田郡では三坂村、本宗道村、川尻村の三か村から六名の者が参加しているに過ぎず、石下地方からは一人の参加者もみていない。このころの当地方の運動は本宗道村の森隆介・木内伊之助らが中心であったと思われる。そして明治二十三年七月三十一日には、森隆介が衆議院議員となったのを機に、自由党の大井憲太郎ら数名の参加をえて、「自由大運動会」が行なわれた宣伝広告が町内に残っている。文面は次のとおりである。
 
  自由大運動会    宗道ニ於テ
     大井憲太郎君 烟花
        外数名 綱引
            旗集メ
            演述
  右ハ森隆介君国会議員命令相成候ニ付、撰挙人一同相招キ赤飯、酒ニテ振舞之由ニテ、撰挙人銘々へ呼状
  参り候
  右費用ハ北谷矢村古橋長兵衛殿、餅米抵当等之出候由
 
 このように政治運動が活発化するにつれ、明治二十四年八月にはほぼ一〇年前の出来事と同じように結城、岡田、豊田三郡の郡長更迭を県知事に願い出る騒ぎが起った。この要望は却下されるが、これに対し豊田郡より内田林人、飯泉斧一郎、新井球三郎らが指導者となって運動を展開していった。当時の「いはらき」新聞(明治二十四年八月十五日付)では、「現在結城、岡田、豊田郡長は既に其職掌の重きを置べき所を失したり、事務料理の上に於て一点の失錯なしとするも、更迭せしめらるゝの止を得ざるものと信するなり」と報じている。