時間を少し隔てて、「明治十年全国農産表」を見ることができる。この農産表は、さきの物産表とは異なり、調査の対象となった作目もかなり整理されている。そのうえ主要な普通作物、特有作物、農産製造品が郡別に掲出されているので、表の分析により、当時の石下町域の農業の実態にかなり近づくことができる。
Ⅰ-5表は、農産表にある下総一二郡のうち、町域が含まれた豊田、岡田両郡のほか、参考までに近隣の結城郡についても、作付面積、収量、産額についてみたものである。農産製造品については作付面積を欠くのは当然である。各郡を構成する村むらは、豊田郡七八、岡田郡五三、結城郡五三である。
Ⅰ-5表 明治10年郡別主要農作物産額 |
下 総 国 豊 田 郡 | 下 総 国 岡 田 郡 | 下 総 国 結 城 郡 | |||||||||||||
作付面積 | 収 量 | 単価 | 価 額 | 作付面積 | 収 量 | 単価 | 価 額 | 作付面積 | 収 量 | 単価 | 価 額 | ||||
実 額 | 構成比 | 実 額 | 構成比 | 実 額 | 構成比 | ||||||||||
町 | 石 | 円 | 円 | % | 町 | 石 | 円 | 円 | % | 町 | 石 | 円 | 円 | % | |
米 | 1 763.1025 | 17 186.492 | 4.727 | 81 240.5 | 52.8 | 776.1816 | 6 701.201 | 4.944 | 33 130.7 | 37.6 | 1 208.3009 | 11 199.182 | 4.742 | 53 106.1 | 47.5 |
糯米 | 132.0024 | 1 372.350 | 4.864 | 6 673.4 | 42.9325 | 355.550 | 5.555 | 1 975.4 | 102.0412 | 945.062 | 4.884 | 4 615.9 | |||
大麦 | 1 777.0922 | 17 518.695 | 1.781 | 31 200.8 | 27.7 | 1 325.6327 | 12 915.461 | 1.551 | 20 031.2 | 30.7 | 1 200.5217 | 10 750.444 | 1.510 | 16 233.1 | 21.3 |
小麦 | 735.8922 | 4 319.850 | 3.006 | 12 985.6 | 713.6114 | 3 130.363 | 2.782 | 8 708.7 | 494.0116 | 3 085.373 | 3.059 | 9 438.2 | |||
稈麦 | 167.1800 | 1 201.450 | 1.625 | 1 952.4 | 14.550 | 75.200 | 1.900 | 142.9 | |||||||
粟 | 196.7400 | 1 829.566 | 1.610 | 2 945.6 | 5.9 | 195.1762 | 2 182.550 | 1.178 | 2 571.1 | 16.8 | 267.9123 | 2 282.500 | 1.697 | 3873.4 | 18.9 |
忝 | 3.7119 | 47.300 | 1.451 | 68.5 | 4.4817 | 48.680 | 1.100 | 53.6 | 10.5300 | 63.260 | 1.700 | 107.4 | |||
稗 | 55.7809 | 764.692 | 0.923 | 705.8 | 147.4908 | 1 933.820 | 0.543 | 1 050.1 | 132.4110 | 1 297.230 | 0.840 | 1 072.8 | |||
大豆 | 1 646.3227 | 9 357.992 | 4.201 | 3 930.2 | 552.7017 | 2 517.366 | 4.114 | 10 346.5 | 697.6912 | 3 234.151 | 4.080 | 13 195.5 | |||
蕎麦 | 151.0128 | 684.822 | 2.060 | 1 410.7 | 88.4105 | 575.676 | 2.066 | 1 189.4 | 182.0225 | 937.195 | 2.275 | 2 132.1 | |||
蜀黍 | 7.8425 | 82.580 | 0.834 | 68.9 | 0.6600 | 20.000 | 1.000 | 20.0 | 24.9500 | 364.860 | 1.300 | 474.4 | |||
玉蜀黍 | 4.4100 | 斤 3.384 | 0.025 | 84.6 | 斤 | 11.5002 | 斤 39.338 | 0.015 | 590.1 | ||||||
甘藷 | 25.7600 | 145.625 | 0.005 | 728.1 | 28.1409 | 207.130 | 0.002 | 414.3 | 130.7923 | 474.994 | 0.003 | 1 424.9 | |||
実綿 | 428.127 | 0.041 | 17 553.2 | 12.9 | 121.900 | 0.039 | 4 754.1 | 5.1 | 68.683 | 0.042 | 2 884.7 | 2.4 | |||
繭 | 2.986 | 0.521 | 1 555.7 | 0.9 | 636 | 0.664 | 422.3 | 0.5 | 1.455 | 0.536 | 774.5 | 0.6 | |||
生糸 | 102 | 3.682 | 375.6 | 0.2 | 35 | 5.551 | 194.3 | 0.2 | 109 | 4.520 | 492.7 | 0.4 | |||
藍葉 | 59.569 | 0.029 | 1 727.5 | 1.0 | 2.082 | 0.004 | 8.3 | 4.570 | 0.022 | 100.5 | |||||
製茶 | 2.548 | 0.209 | 532.5 | 0.3 | 23.859 | 0.227 | 5 416.0 | 5.8 | 7.341 | 0.211 | 1 548.9 | 1.3 | |||
葉煙草 | 2.750 | 0.050 | 137.5 | 677 | 0.005 | 3.4 | |||||||||
菜種 | 石 108.680 | 5.583 | 605.2 | 0.4 | 石 449.302 | 6.941 | 3 116.5 | 3.3 | 石 1 653.706 | 5.638 | 9 323.6 | 7.7 | |||
計 | 166 482.3 | 93 402.5 | 121 537.1 |
勧農局「明治十年全国農産表 全」(明治12年2月刊,『日本農業発達史』第10巻116~117ページ)による |
表によれば、Ⅰ-3表における千葉県とは異なり、三郡とも構成比における米の地位が相対的に低下していることがはっきりする。表には示さなかったが、猿島郡では極端に低く、二四・四%を示しているが、これは耕地面積に占める水田面積の狭少さに由来するためであり、他方で農産製造品の茶が、農業総生産物価額の二〇%近くを占めている。この期における猿島地方の茶業の隆盛は、県内でも圧倒的であって、明治十二年の県産額の三九・七%、十八年には四〇%を超える。
町域のある豊田郡と岡田郡を比較してみよう。
豊田郡においては、米と特有作物である実綿の構成比が高いのがめだつ。岡田郡では、米が低い構成比を示すのに反し、雑穀、藷類の高率がこれをカバーし、両郡の普通農作物の構成比をほぼ同一にしている。さらに特有農産物、農産製造品についてみれば、岡田郡において、実綿の収量が少ない分だけ、茶が高い産額を示している。このことは、両郡を比較した場合に、豊田郡がやや米づくりに適した地域をもち、さらに本石下村周辺に発達した織物業のための原料供給地としての性格を示していたといえよう。この傾向は明治十年代を通して持続されたもののようで、明治十七年(一八八四)の豊田郡下水海道駅の景況について、この界隈の白木綿が「近来非常ノ盛況ヲ呈シ」、織物業についても「豊田郡石下村ニテモ縞木綿弐万反以上ヲ織出セリ」(「明治十七年分勧業年報」)と報告されている。
他方鬼怒川西岸の岡田郡においては、旧幕以来商品として最も価値をもつ米ではなく、量の割に価格の低い麦、雑穀の作付けを余儀なくされていたといえる。米作の不振は、貢米の納入にも支障を来すような状態であった。同郡向石下村用掛浅野忠助は、明治八年末に「貢米石代上納御願書」(増田務家文書)を茨城県令に提出している。
当村貢米之義、野エ場ニテ米作不向候間近年引続石代を以上納奉願上候義ニ付本年貢米之義も悉皆石代米
納 被御申付度何卒出格之以 御仁恤此段御聞済被成下置度候様偏ニ奉懇願候 以上
向石下村は旧幕時代に森川織部の知行地で、明治元年の村高は三五九石一斗一合であった。「願書」は、向石下村では畑地のため米作が思うに任せないので、近年来の例に照らし、貢米の全額を石代納にして欲しいと述べている。石代納というのは、旧幕時代に年貢を納入するさい、一般的な米納の代りに貨幣によって納める方法である。関東地方の諸地域では田の貢租を米納、畑の貢租を金納とすることがよくみられるところで、米二石五斗に対し永一貫文の割合で金納させられていた。しかし交通の不便、地味の不良、米価の低落、凶作などの理由により、低率の石代納が認められることもあった。向石下村がきわだって以上の条件を満たしていたとは考え難い。おそらくは川西の村むらが、新政府を納得させるほどの地味の不良に悩んでいたのであろう。
Ⅰ-6図 川西の景観(西中,岡田小のあたり)
鬼怒川を境とした東部の豊田郡と西部の岡田郡との米作の条件の差異は、明治十年代には、確実に形成されていた。
結城岡田豊田三郡ノ内絹川以西ハ吉田用水組合ニシテ平常灌漑ニ乏シキモ本年挿秧ノ節ハ漸ク乏シカラサ
リシニ爾来数旬旱天打続キ土用前ヨリ川水涸渇乾燥甚シク為ニ稲作ハ多少害アルヘシ又天水場ノ如キハ勿
論幾分カ収穫ヲ減スルナラン(『茨城県勧業雑誌』明治十六年九月)
豊田郡ノ内絹川以東ハ江連、福岡両用水ノ灌漑アルヲ以テ挿秧以来能ク生長シ水陸田共平年ニ異ナラス
(同前)
右の史料は、鬼怒川の東と西の米作の条件を灌漑の差として捉えているが、さらに岡田郡について、「東部ハ絹川ニ連リ西部ハ飯湖ノ湖水ニ莅ミ郡内ノ耕地大ニ差異アリ」(以下引用は『茨城県勧業雑誌』明治十四年十二月による)とし、鬼怒川沿いの東部が用水の欠乏を常とし、飯沼湖岸の西部は沼の氾濫によって、ややもすれば水害の憂き目をみることも指摘されている。しかし「郡中用水ヲ引用スルヲ以灌漑常ニ充分ナリ」とされる豊田郡であっても、明治十四年のように、「小暑(七月七日ころ)立秋(八月八日ころ)ノ候ニ至マテ一天雨ナク用水乾枯耕地亀甲ノ地ニ至モノアリ」と述べられている。真夏に一か月以上も降雨をみなければ、水田は干上って、亀の甲羅のような模様ができるというのである。
岡田郡の稲作における水害と旱害の同時発生の悩みは、豊田郡と比較したとき、平均反収の差となって、数字に反映される。明治十四年(一八八一)岡田郡における早稲の反収一石に対する豊田郡の一石五斗、中稲一石三斗に対する一石五斗、晩稲一石一斗に対する一石二斗五升となり、いずれも豊田郡が一・二~一・五倍も上回っている。
鬼怒川以西の稲作の劣位は、必ずしも畑作の優位をもたらしはしない。明治十六年の報告は、「陸稲大小豆其他雑穀共播種以来気候寒冷為ニ少シク萎凋シタルヲ以テ収穫モ亦減少ス可ク殊ニ小豆里芋其外野菜類ハ半減ナラン」と悲観的推測をしている。
ここで川西が川東に対し圧倒的優位に立っていた製茶業についてみておこう。
Ⅰ-7図 川東の景観(小保川のあたり)
安政の開港以後、茶は生糸と並ぶ重要な輸出品であった。しかし、開港後ほぼ四半世紀を経た明治十年代になると、勃興著しかった茶業も、粗製濫造の製品を輸出したため、外国市場において、著しく声価を失墜させていた。明治十七年八月に開催された真壁、結城、岡田、豊田、猿島、西葛飾六郡製茶共進会(品評会)も、声価挽回のための一大セレモニーであった(共進会については、製茶共進会事務掛「真壁、結城、岡田、猿島、西葛飾六郡製茶共進会報告」明治十七年八月刊による)。
共進会は、真壁郡下妻町第三中学校(現下妻一高)で、八月十一日から二十日まで開かれた。会の組織と目的は「純然タル民設ナリ然レトモ之レカ審査賞与等ハ官ノ恩賜ニ係ル」「製茶改良ノ功ヲ奏シ名産タルノ実名ヲ図ル……彼我長短ヲ比較シ競争併進ノ会ヲ起ス」とうたわれている。
会の発起人七八名のなかで、町域に関係ある地域のものをみると、岡田郡では飯沼村から飯田嘉兵衛、馬場村から秋葉類助、鴻野山村から秋葉源左衛門、秋葉杢之助、崎房村から秋葉三太夫、国生村から横関与左衛門、長塚久右衛門の七人が名を連ねている。これに反し、豊田郡では原宿村から倉田義一郎が加わっているにすぎない。
また、共進会最終日の八月二十日には、午後二時から五時まで、集談会が催されているが、出席者三〇名のうちに、横関与左衛門、横関守清(国生村)、倉田義一郎らの名がみられる。会の議題は、販路拡張の方法、荷造りおよび再生の得失、製造費減却のこと、栽培および肥料の得失、茶業取締組合設置後の得失など、五項目にわたった。ここで発言した横関与左衛門は、この年に設置された茶業取締組合により、製品の改良がすすんでいるにもかかわらず、苦情をいいたてるのは「奸商の言」であると商人を批難している。一方倉田義一郎は、とくに常総二郡(郡名はさだかでない)の販路拡張の必要性を説いている。一方は商人資本による製品の買いたたきにあえぎ、他方は製品の販路に悩んでいたのである。
華々しい共進会の開催にもかかわらず、両郡の、とくに岡田郡の製茶業は、確実に下降線をたどっていたとみられる。Ⅰ-6表は、明治十七、十八年における豊田、岡田両郡の茶業諸件をみたものである。さきに述べたように、猿島郡の製茶産額は、明治十二年に全県の四〇%を占めたが、翌年には四一%に達している。これに対し両郡の産額は横ばいの状況である。豊田郡の生茶産額が明治十八年に前年の一〇%以下に落ちこんでいるが、これは十七年の数値の誤りに基づくものとみてよい。また、職工が明治十八年に前年の四倍近くも増えているが、製茶産額から推して疑問がもたれる。さらに製茶の生産と販売にかかわる、焙炉個数と仲買をみても、豊田郡で微減、岡田郡では激減している。
Ⅰ-6表 茶業諸件 |
豊 田 郡 | 岡 田 郡 | ||||
明治17年 | 明治18年 | 明治17年 | 明治18年 | ||
焙炉個数(個) 製茶仲買(人) 生茶仲買(人) 製茶小売(人) 職 工(人) 生茶産額(貫) 製茶産額(斤) | 329 34 9 6 50 162 820 18 313 | 238 34 7 7 195 14 649 18 312 | 1 173 291 39 5 235 16 667 18 750 | 786 115 18 1 227 17 000 21 250 | |
茶園面積(畝) | (100.0) | 3 906 | (100.0) | 12 874 | |
園圃の蒔付年別(畝) | 3年未満 4 年 5~6年 7~8年 9~10年 11年以上 | ( 9.3) ( 5.8) ( 16.0) ( 22.0) ( 26.2) ( 20.7) | 363 227 625 861 1 022 808 | ( 4.2) ( 6.7) ( 13.0) ( 19.8) ( 18.8) ( 37.5) | 546 862 1 667 2 546 2 417 4 829 |
「茨城県勧業年報第四回」(明治十七年分),15~16ページ,「同第五回」(明治十八年分)24~26ページ,39ページによる.茶業面積の( )は明治18年における構成比である. |
たかだが二年間の数字をもとにして、茶業の衰退をいうのは危険ではあるが、製茶業における唯一の原料供給源である茶園の内容をみれば、衰退の傾向はより明らかになる。明治十八年調査の数字しか得られなかったが、Ⅰ-6表にみるように、明治十四、五年を画期とし、茶の蒔付けが激減しているのである。蒔付け後五年以上を経過した茶園面積は、岡田郡で全体のほぼ九〇%、豊田郡でも八五%に達している。茶樹が年々更新されるべきものでないとしても、茶の価格の下落が、製茶業への意欲を殺いだことは確実であろう。
最後に養蚕についてみておこう。Ⅰ-5表にみられるように、明治十年の時点において、豊田、岡田両郡で繭、生糸の産額は、一%内外を占めるのみである。単価においてはるかに実綿を上回る繭や生糸の産額がこのように低いことは、この地域の養蚕業が未発の状況にあったといえる。
明治初年の外国貿易において輸出量の大半を占めたのが生糸、蚕紙、茶であった。このため、全国各地で、養蚕業は熱い視線を注がれていたのである。茨城県における養蚕業も、すでに明治五年ころから、行政の奨励によって、広汎な勃興を見るのであるが、「県下養蚕ノ業ヲ通観スルトキハ水戸以南ニ盛ニシテ以北ハ甚タ振ハス其原因土地ノ適否ニ非スシテ人情ノ進度ニ関スルモノト言フヘキカ」(『茨城県勧業雑誌』第二二号、明治十二年八月)と県の役人を嘆かせる局面がみられた。
町域についても、養蚕の導入は、明治五年あたりまで遡及できる。いま豊田郡本石下村ほか、一六か村の養蚕についてみれば、
庚午年(明治三年)
一 養蚕人無御座候
辛未年(明治四年)
一 同断ニ御座候
壬申年(明治五年)
一 生糸壱貫弐百目
〃
一 同糸百目
〃
一 同糸弐百目
合生糸壱貫五百目(第四大区五小区「養蚕出来高書上帳扣」明治五年十月)
とある。一七村の産高合計一貫五〇〇匁というのは、微々たるものであり、どれほどの農家が養蚕、製糸に挑んだのであろうか、新しい時代の息吹きをうかがうことができる。
しかし、町域でも、養蚕業は順調な発展を遂げなかった。明治十八年の報告では、「豊田岡田二郡ハ鬼怒川ニ沿ヒタル村落ニシテ土質蚕桑ニ適スルカ故ニ桑植ヲナシ蚕業ニ従事スルモノ有リト雖トモ皆多ク旧習ニ安シ進テ改良ヲ謀ルモノナシ」(『茨城県勧業報告』第四〇号、明治十八年九月)と述べられている。おしなべて県の報告書は、「人情ノ進度」とか「皆多ク旧習ニ安シ」とか、不振の責は農民に帰せられている。しかし、蚕桑に適する土地から桑葉を収穫しただけで、必ずしも高品質の繭が得られるわけではない。
豊田郡若宮戸村小林高之助の場合は悲惨である(以下引用は、『茨城県勧業報告』第四一号、明治十八年十月刊による)。「余ハ本年養蚕全敗シタルヲ以テ其全敗ノ原因ヲ検究シタリ」といい、「養育ニ心思ヲ凝ラシ手足ノ労働ヲオシマスシテ虫ノ健全ヲ祈ルト雖トモ今朝実ニ望嘆ニ堪ヘサル程ノ現状タリ」というところから、高之助の嘆きの深さを測ることができよう。彼の計算では、五月八日に孵化した蚕児は四万粒で、これが健全に生育すれば、四万粒の繭が収穫できるので、三〇〇粒で一升とすれば、一石三斗三升三合余の繭が得られるはずであった。
しかし孵化した稚蚕は五月八日から減りはじめ、十日に三分の一、十二日には四万のうち「僅々十五六頭の存スルアルノミ」という結末に終っている。原因は桑葉を貯えるため蚕室に置いた四斗樽にあった。以前藁紙を製するのに用いた樽であったが、これには苛性ソーダの水溶液を入れておいた。養蚕用にするため清水で洗い、鱒を飼って充分の試験を経て用いたものであった。稚蚕全滅の理由は簡単で、三、四年前にたくあん漬けに使用されたので、木質の気孔に残存した塩分が水分の多い桑葉に付着し、刻んで与えた葉から稚蚕が塩分を摂った結果であったという。高之助は最後に「愛国社種(岩代国産蚕種、県から送付されたものという)ノ三番掃丈ケハ此毒ニ罹ラサルヲ以テ三斗ノ収額ヲ見タル」と書き、からくも次年の収繭に望みを託しているようにみえる。県段階の報告書が、養蚕の低調を謗り、旧習になずんだ農民を批難する一方で、このような試行錯誤をくり返した農民がみられたことは、銘記されるべきである。新しい作目が奨励されても、それが個々の農民に受容されて応分の成績を収めるのは、容易なことではなかった。
豊田郡においては、Ⅰ-5表にみられるように、特有作物実綿の産額が一〇・五%を占めている。これは、養蚕の低調とは逆に、綿作と綿織物の隆盛を語るものである。農商務省主催になる「繭糸織物陶漆器共進会」が、明治十八年四月一日から六月二十日まで、東京上野で開催されたが、ここで豊田郡本石下村野村信之介と吉原惣太郎がそれぞれ銀盃一箇の賞を得ている(茨城県勧業課『明治十八年分 茨城県勧業年報』第五回による)。前者は縞木綿により、後者は結城木綿により受賞したものである。