豊田郡の村むら

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川東の台地の村むら、大房、収納谷、山口、平内に関して、明治六年(一八七三)三月調査の物産書上帳(明治六年三月「産物取調書上帳」第四大区五小区、豊田郡大房村、収納谷村、山口村、平内村)が残されている。町域の各村がこのような物産調査を行なっていたと考えられるが、資料が失われたのが残念である。
 これらの村むらは、豊田郡内でも比較的小村であった。三坂村二二八戸、新石下村一八一戸など、郡内の村むらでも戸数の多い村がある一方で、収納谷村では一二戸という少なさである。Ⅰ-7表は、四か村で書上げられた物産についてみたものである。これら物産のうち、麦、小麦、菜種、小豆、粟、稗など、商品価値の低いものは、いずれも「自用費消」とされ、綿、藍、縞木綿、鶏はすべてが他国輸出になっている。
 
Ⅰ-7表 豊田郡4村の物産(明治6年)
大房村収納谷村山口村平内村
 
石  
170.420
石  
133.100
石  
195.390
石  
96.520
 貢  租52.61626.98264.71027.035
 自用費消118.80472.000130.68064.800
 他国輸出34.1184.385
112.75041.750191.19050.000
小 麦14.1005.62512.1806.930
菜 種3.8871.5732.6601.920
大 豆45.50018.47542.80922.540
 自用費消21.30010.50019.3009.500
 他国輸出24.2007.97522.78513.400
小 豆2.7201.0103.5201.347
15.5756.31012.3907.700
15.5756.31018.1807.700
 
綿

350

142

687

173.00
437189189231
 
縞木綿

250

180

250

160
 

40

30

50

30
戸 数31123213
人 口19510024075
  男1075011941
  女885012134


 
 米についていえば、戸数、人口の少ない二村、収納谷村と平内村に他国輸出がみられるが、これは、貢租額の低さに由来すると考えられる。旧幕時代、豊田郡や岡田郡の村むらは、天領、旗本領が入り組んでいたために、たとえば幕末期に大房村では四人の旗本領が、山口村では三人の旗本が村を支配していた(幕末維新期の村高は、大房村で一五〇石余、収納谷村で一〇七石、山口村で二七五石、平内村で一二五石である。表にみられる収量は、他の三村の村高より低くなっているにもかかわらず、収納谷村では逆に高くなっている。これが貢租の割合を低くしている)。
 つぎに雑穀であるが、これらは、さきの理由により自家消費に向けられて当然である。ただ、四村に共通して大豆産額のほぼ半量を輸出していることは、前項でみたように、千葉県内の醸造業との関連を思わせ、鬼怒川の舟運と相まって、この地が原料供給地としての役割を担っていたことが、うかがわれる。
 また特有農作物としての実綿の収穫が四か村ともにみられることも注目される。これらは縞木綿の原料となるもので、自用費消することにより、製品として輸出していたはずである。水海道駅から積出された二万反といわれる縞木綿のうちには、このように個々の農家が織りあげたものも、多く含まれていたことであろう。表において明らかなように、四か村で織出された縞木綿は八〇〇反余、一戸平均で一〇反に満たない。家計の補充としても、多くは期待できなかったであろう。
 藍についていえば、木綿織物の染料にする重要な作目であった。それが全量輸出されることに奇異な感を懐かせはするが、藍葉を藍玉にまで精製するには、技術的に困難をともない、一般農家のよくするところではなかった。