明治十一年(一八七八)七月郡区町村編成法が布告されて地方の行政制度が変わった。これは同時に制定された府県会規則、地方税規則とともに三新法と称せられるものであり、これまでの大小区制は廃止となり、郡制をもって町村を総括し、さらに県が郡を総括することとなった。そして同十三年区町村会法が公布され、地方自治体制が整って県―郡―町村の統治体制が確立した。
大区小区制は明治五年に実施されてから、同六年と八年とにそれぞれ改正されたが、郡区町村編成法によって町村の区域及び名称はすべてもとのままとなり、町村が再び地方行政の基礎的単位の地位を回復したのである。この明治十一年十二月十四日当地方では上・中・本石下村が合併して、新しい本石下村が成立した。その合併の経過・理由をみてみよう。
上・中・本石下三か村合併の気運は、明治七年ごろから高まった。もともとこれらの村は一か村であったのに、江戸時代に数度にわたって分村が行なわれた。だが年貢や田畑の所有状況など生活上の不都合が起っていたのである。そこへ地租改正事業が行なわれることとなって、一層合併気運が高まったというわけである。合併願は同七年から毎年のように県庁へ提出された。当初の三年間は合併の理由を次のように説明した。
三か村は寛永七年(一六三〇)の検地では高二〇一七石余で本石下村壱村であった。万治元年(一六五八)高
四三〇石余が原宿村として分村し、さらに寛文二年(一六六二)の検地に際し高九三四石余の本石下村と、
高二〇六石余の中石下村、高四六〇石余の上石下村に分村した。しかし実生活では提防・橋梁・道路や田
畠など混雑した状況で、このままでは将来紛乱が生ずる心配がある。そこで三村一同の者が熟談の結果合
併を願い出た(大意)。
しかしこのような理由ではどうしても合併は許可にならなかった。そこで改めて三村は地租改正事業を理由に合併願を提出した。その文面は次のとおりである(新井清家文書、「明治十年三ケ村合併願」)。
第七大区十小区豊田郡本石下村、中石下村、上石下村右三ケ村役人一同奉二申上一候、今般地租改正ノ義
被二仰出一候ニ付実地取調方着手仕候処、私共村方ノ義ハ素々一村分郷ノ村方故、田畑、宅地ハ勿論飛地新
田等ニ至ル迄悉皆入会相成居、一村ノ田畑三ケ村ノ旧畝ヲナシ候様ノ姿ニテ、迚モ一村切取調候儀不二相
成一候ニ付テ、三村協議ノ上壱紙図面ニ相仕立、而シテ三村各其旧畝ニ倚リ村図ヲ製シ候積リヲ以テ調
査仕候処、何分前条ノ次第三村混雑殆調製ニ差支候ニ付、耕地分ケ□以村界ヲ定メ候ハ、紛乱ヲ防キ候カ、
共存候ヘ共是以田畑偏倚ノ場所ニテ無拠、乍去三村ノ村ヲ以テ取調候時ハ何様精密ヲ尽シ候トモ、調漏等
ノ義可レ有レ之、加之後来紛乱ノ憂ヲ生シ候ハ必然ト存候ニ付、三村合併候ヨリ外手段無レ之、然ル上ハ
村費モ相減シ、人民ノ弁利ニモ相成候ニ付、小前一同協議ノ上三村合併本石下村ト称シ度、何卒出格の以二
寛典一三邨合併被二仰付一度、依之小前惣代連印ヲ以此段偏ニ奉二願上一候、已上
明治十年七月十四日
つまり地租改正の実地取調について、田畑宅地の所有関係が複雑であるため、どうしても一村として扱わなければならない。そうしないと将来紛争が起ることになるであろう、として三か村の代表と戸長、副区長らが署名捺印して、茨城県権令宛に願い出たのである。そしてこのように数か年にわたる運動の結果、前述のように明治十一年合併が実現したわけである。