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Ⅱ-1図 石下町合併図
(『茨城県史 市町村編Ⅱ』より)
明治十七年の連合村成立当時町村の標準戸数は三〇〇戸を基準とされたが、豊田郡下では町村数七四(町一、村七三)で、このうち標準をこすもの一町、標準に近いもの二村、他は標準以下であり、一町村平均の戸数七〇戸、人口四四八人であった。岡田郡下は村数四九、このうちわずかに標準をこすもの一村、他の四八は全て標準以下であった。茨城県全体をみると、一町村当りの戸数では筑波・岡田両郡が五七戸と最低であり、最高は那珂郡の一二六戸であった。そして一町村当りの戸数は八四戸、人口は四九四人であったから、当地方の村々は大部分県平均以下の規模の町村であり、町村の基準とされた三〇〇戸には程遠い数字であった。
さて当時戸長はどのような任務を有していたのであろうか。これについては明治十一年十二月に茨城県令から、戸長の職務要項として指令があった。その主な事項は、布告布達類を町村内に伝達すること、地租や諸税を取まとめて上納すること、戸籍・徴兵の事務に関すること、地券台帳・諸帳簿類の保管、小学校就学児童への勧奨、天災や災害時の処理と県への通報、河港・道路・堤防・橋梁等の修繕・維持に関することなどであった。そしてこれ以外は「府知事・県令又ハ郡区長ヨリ命令スル所ノ事務ハ、規則又ハ命令ニ依テ従事スベキ事」とされた(茨城県報丙第一四二号)。