明治十一年の郡区町村編成法によって郡は、県と町村の中間に位置する組織体として規定され、事務取扱所が郡役所と称され、各郡に郡長がおかれた。当時の県下の郡は一八であったが、郡長は信太・河内両郡が一名、結城・豊田・岡田三郡が一名、西葛飾・猿島両郡が一名であったから、計一四名の郡長が存在したことになる。当地方は豊田・岡田両郡下に属したわけであるから、郡長は結城郡と合同で選任されていた。明治二十三年府県制・郡制が施行されると、郡は従来のように国の行政事務を管掌するとともに、地方自治体として町村と府県との間の中間組織体となった。そして郡会及び郡参事会が設けられ、独立財源も与えられて、府県知事監督のもとに、郡の行政が開始された。郡制の施行期日は各府県まちまちであったが、茨城県では同二十九年七月一日施行され、この年郡会議員の選挙も行なわれた。
郡制が施行されたものの郡の中には戸口僅少、資力薄弱で独立に堪えない規模のものもあった。そこで町村の統合と同じように、郡の統廃合が行なわれることとなり、明治二十九年四月一日これが実施された。この時本県下では信太・河内両郡が稲敷郡に、西葛飾・猿島両郡が猿島郡に、そして当地方を含む結城・豊田・岡田三郡が結城郡となった。また郡によっては若干の境界の変更があったが、石下地方は全く変更もなく、結城郡管下となったのである(つまり茨城県下では郡の統合があった三か月後に郡制が施行されたことになる)。そしてこの郡制は大正十三年廃止されるまで続いた。茨城県では明治二十九年七月から大正十二年三月まで二七年間郡制が続けられ、この間七回の郡会議員選挙が行なわれた。
郡制は廃止されたが、郡の名称は地方行政区画として残り、郡長は国の機関として専ら町村自治行政の指導監督をすることとなった。だが大正十五年地方行政機関の簡素化と、町村の自治権の拡充と健全な発達を促すため、郡長と郡役所は廃止となった。
郡制の変遷は概略したような次第であったが、郡制下ではややもすると、郡長と町村住民との間に衝突が起るようなこともあった。実は明治二十四年結城・豊田・岡田郡下では郡長更迭の運動が起っている。その状況は当時の「いはらき」新聞(明治二十四年八月十五日付)でみてみよう。
全郡挙って郡長に反対す
茨城県結城、岡田、豊田の三郡は一郡長の兼轄に属する所なるが、兎角一癖ある土地柄と見え、十三年間
に十余人の郡長を更迭せしめし程にて、殊に現在郡長に対する人民の意向は最も面白からず、三郡の集落
中わずかに二ケ村のみ中立を守り、余の四十余ケ村の村長は皆之れが反対に立ち、一同連署して県知事に
郡長更迭の事を申出せしに、知事は之を拒絶せしかば……其更迭を主張する所の個条は如何なる点にある
や、我輩未だ之を詳かにせずと雖、要するに同郡長は人民の与望を失したるものと云はざるべからず。奈
何となれば同郡長の更迭を企望すると云其人を見て、以て之を知らん、衆議院議員之を望み、県会議員之
を望み、町村長亦之を望むと聞く、夫れ此更迭を企望する所の人々たるや各其職務を異にし、直接に郡政
に関係を有するものにあらずと雖、其郡にありて人民の与望を以て推され、郡人民を代表するの任を帯ぶ
るものたり……結城、岡田、豊田郡長は既に其郡人民の与望に背きたり、然らば則ち郡務処理の上に於て
は、敢て失踖と認むる所なきも、之を更迭せしむるを以て至当と云はざるを得ず(後略)
この主張と同じ趣旨の「郡長の更迭」と題する記事は、同年八月二十日付の新聞紙上にも掲載されている。このように郡政はなかなか平穏に運べなかったようであるが、それも次第に落着きをみせるのである。明治四十年当時の結城郡に関する新聞記事もあるので、次にその要点を紹介しよう(明治四十年五月二日付)。
結城郡の自治
○結城郡は元結城、豊田、岡田の三郡なりしを、明治二十九年三月合併して之を結城郡と称し、周囲二十
六里十町、広ぼう東西五里、南北八里三十三町、面積十六方里、戸数一万四千四百四十九戸、人口九万二
千九百八十八人あり、之を区画して三町、二十四ケ村となす……
○本郡は十余年前迄三郡に分立しありしのみならず、封建時代に於ても結城町は水野家の領地にして、其
他の各町村悉く旗本領もしくは天領なりしを以て、党派的観念はなはだ盛んにして、明治以後に至りても
尚其弊脱せず、自治制実施の前後に於ては各町村到る所として、党派の軋轢を見ざるなく、為めに自治機
関を阻碍(がい)するもの少なからざりしが、近年漸次党派の争ひを減じ、一、二ケ村を除くの外概して平
穏円滑にして、納税の如きも極めて良成績を挙げつつあり。
○有給吏員は結城町助役、水海道町助役、上山川村長、石下町助役の四人にすぎず(後略)