高い小作地率

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地租改正は、明治維新の諸改革のうちでも、新しく成立した政権を維持するための財政的基礎を確立するための改革であったが、土地制度の面でも画期的な変化をもたらす改革であった。旧幕時代に現物納の年貢を徴収されていた農民は、地租改正により、年貢からは解放されたものの、維新政府へ金納の地租を納めることになった。地租は旧幕時代の年貢に匹敵するほど重いものであった。農民は一度は自分のものとした土地を売り渡し、小作料として、現物の年貢を地主に納める破目に陥ったのである。
 地租改正は、封建領主的土地所有を解体し、私的土地所有を認めはしたが、地主的土地所有を創出したといわれる所以はここにある。そして、地主的土地所有が解体され、農民が現物納の年貢から解放されるには、地租改正から七〇年を経た農地改革を俟たねばならなかった。
 石下地方における明治十年代後半の小作地率の変化をみたのがⅡ-1表である。
 一般に茨城県におけるこの期の小作地率は低いのであるが、表にみられる結城、岡田、豊田各郡においては、県の数字を上回っている。明治二十年に近づくと、茨城県の数字でほぼ田畑の三分の一が小作地を示すようになるが、これら三郡においては、それを大きくしのいで四〇%前後の数字を示す。当時国内の有力な商品は米であり、米を現物小作料として収取する地主にとっては、土地所有の対象として水田がとくにうまみのあるもので、田の小作地率が畑に比して高い比率を示すのはそのためである。明治十六年時点で、茨城県における畑に対する田の比率は四七・三%であり、結城郡では四〇・一%、岡田郡で三二・一%、豊田郡で四〇%と、これら三郡が畑作地帯であることは明らかである。にもかかわらず、田の小作地率が高い数字を示していることは、当時の農民の置かれた状況の厳しさを反映したものといえる。
 
Ⅱ-1表 自作地小作地別面積
自  作  地小  作  地




16

結城郡2 5559721 5831 482
(36.7)
644
(39.8)
838
(34.6)
岡田郡2 1026861 4151 176
(35.9)
365
(34.7)
810
(36.4)
豊田郡3 4351 5232 1122 030
(37.1)
864
(39.5)
1 166
(35.6)
茨城県計122 49656 2616 2354 7033
(27.6)
23 993
(29.9)
23 040
(25.8)




17

結城郡2 7919461 8451 247
(30.9)
670
(41.5)
577
(23.8)
岡田郡2 1046851 4181 174
(35.8)
365
(34.8)
808
(36.3)
豊田郡3 3511 3132 0382 113
(38.7)
873
(39.9)
1 239
(37.8)
茨城県計124 87456 59068 28446 150
(27.0)
24 155
(29.9)
21 995
(24.4)




18

結城郡2 7088811 8271 588
(37.0)
662
(42.9)
925
(36.0)
岡田郡1 9936801 3121 152
(36.6)
334
(32.9)
818
(38.4)
豊田郡3 1271 2951 8322 227
(41.6)
906
(41.2)
1 321
(41.9)
茨城県計120 24054 15966 08152.683
(30.5)
26 941
(33.2)
25 742
(28.0)




19

結城郡2 6418711 7701 655
(38.5)
672
(43.6)
982
(35.7)
岡田郡1 9066901 2151 240
(39.4)
324
(32.0)
915
(43.0)
豊田郡3 1151 2551 8592 240
(41.8)
946
(43.0)
1 294
(41.0)
茨城県計115 23153 62561 60657.358
(33.2)
27 614
(34.0)
29 744
(32.6)




20

結城郡2 6418711 7701 655
(38.5)
672
(43.6)
982
(24.4)
岡田郡1 9066901 2151 240
(39.4)
324
(32.0)
915
(43.0)
豊田郡3 1171 2491 8682 237
(41.8)
952
(43.0)
1 288
(40.8)
茨城県計118 66954 93863 63157 114
(32.5)
27 007
(33.0)
30 107
(32.1)
( )内は小作地率を示す.各年「茨城県勧業年報」による.


 
 とくに岡田郡においては、畑の小作地率が田のそれを上回っていることは、糧道を断たれた農民の存在をうかがわせるものである。青木昭氏の調査によれば、「慶応元年から明治十五年にいたる約一八年の間に、年々国生の貧農は長塚家から食料ならびに農業再生産のために米麦種籾、蕎麦を借り出し、それによって文字通り細々と生活をつなぎとめてきた」のであり、さらに「物価騰貴の折にはそれすらもなりたたず、一両から一両二分の施し金、あるいは貸付金による救恤をうけなければ暮しおおせなかった窮状におかれたのである」といわれている(青本昭「長塚節文学の経済的背景」(『常総文学』第四号)一一ページ。以下岡田村の記述については、ことわりのないかぎり、同論文による)。
 常時十数名の極窮人が存在し、年々救恤の対象にされていた川西の畑作地帯では、集落内の地主が土地の集積をすることは少ない。商品流通の大動脈として、沿岸町村をうるおしてきた鬼怒川の西岸から出た商人や豪農がよく彼らの土地を集積したのであった。時代が降って明治三十二年(一八九九)の直接国税総納額の調査によれば、県内第四位、七六五円六一銭三厘を納税した結城郡宗道村大字新宗道、農平民松村修平は、結城郡内一町六村、真壁郡内一町一村、猿島郡内一村、計二町八村で地租を納めている(明治二十九年に岡田、豊田両郡は結城郡になっている)。石下町域では、岡田村で四五円八四銭三厘、石下町で二円三六銭四厘を納めている(明治三十二年貴族院多額納税者議員互選人名簿)。
 さらに明治三十七年の名簿には第五位に直接国税総納額一万九〇一二円四四銭の結城郡水海道町商平民植田清五郎が登場する。彼は結城郡、筑波郡内一町一四村で納税しているが、豊田村で三七円五五銭四厘、岡田村で一五円八四銭が見える。またさきの松村修平は、この年は一一位に後退するものの、総納額では九六九円三四銭で、二五%を超える伸びを示している。石下町の納額二円六五銭は五年前とほぼ同額であるといえるが、岡田村の五三円六三銭一厘は、大きな伸びであるといえる。そして新たに玉村で三円六〇銭を納めている(明治三十七年貴族院多額納税者議員互選人名簿)。ここからは明治後期においても、地主による土地の集積が進行していたことがわかる。
 他方土地を失った農民について、つぎの証書によってみよう(増田務家文書)。
 
      下作証書
   岡田郡向石下村第□□□□番地
   字十八人割
  一田九畝廿八歩
     此入作米壱石也
  右は貴殿所有地前書之通り下作仕候処実正也。且下作礼之義ハ年々十二月十日限り聊無相違御上納可仕候。
  若万一本人違約致候節は、保証人ニテ引請弁償仕、少モ貴殿御迷惑御損毛相掛申間敷候。依之為後日下作
  証書入置申候処、如件。
     明治廿壱年四月廿四日
                                   向石下村 下作人
                                         □ □ □ □印
                                        保証人
                                         □ □ □ □印
    当村
     □□□□□殿
 
 地主に売り渡された土地は、史料にみられるように小作に出されるのであるが、土地の売主が小作したのかどうか、はっきりしない。それにしても田九畝二八歩の小作米が米一石というのは、当時としても相当の高率である。青木昭氏の計算によれば、岡田村の水田小作料は反当七斗から九斗であるとされる。岡田郡の水稲の平均反当収量をみると、明治二十年において、一石四斗余、結城郡の一石余、豊田郡の一石二斗余、明治十六年~二十年の茨城県平均一石一斗四升余を大きく上回っている。しかし茨城県における水稲反収の低位性は、みじめともいうべきであり、地租改正期における反収は一石一升七合(全国一石三斗二升二合)で、全国平均を二三%も下回り、全国四五府県中三九位であり、その後一〇年を経た明治十六年から二十年の平均をとっても一石一斗四升八合(全国一石二斗九升八合)にとどまり、第三九位を保持しつづけていた。これほどの低位生産性をもたらしたのは、旧藩時代の重税にほかならない。ちなみに千葉県は、地租改正期の反収七斗九升三合(第四四位)であったが、明治十六~二十年の平均では一石四斗一升五合と(第一六位)、五〇%近い伸びを示している。
 
 岡田村は、「事蹟簿」の記述者が、「本村は地味肥え」と記しているとおりに、高い生産力を誇れるにしても地主取分が七〇%を超えるのは異常に高い数字といわなければならない。耕作者取分のうちに、種籾代、肥料代が含まれているのかどうか、史料のような契約書からはうかがうことはできない。旧幕時代にいわれた五公五民、六公四民を凌ぐ、現物高率小作料であったことは確実である。古典的計算によれば、地租改正検査例においては耕作者(小作人)取前三二%(種籾、肥料代を含む)、地主の小作米三四%、公租三四%を示し、明治十八年においては、耕作者取米は四二%に増加し、小作米四二%、公租一六%となる。右にみた数字は、反当収量が一石六斗にもなる中田一反の数字であり、反収の低いこの地方においては、耕作者取分の絶対量は、ずっと低いものとみなければならない。自己の耕地によって生活が成り立たない場合、雇い奉公に出るのは、それほど稀な例ではない。次の(一)、(二)の証書はこの例である。
 
  (一)   一ケ年雇人証
  一金七円  但[一ケ年金拾四円之割ニテ一ケ月十五日勤ニテ一ケ年間]
     但明治廿一年二月十一日より来ル明治廿二年二月十日迄
  一此□□と申者実成者ニ付我等保証ニ相立貴殿ヘ一ケ年之間一ケ月十五日宛雇奉公差上置前書之金七円借
   用仕其約取極メ為取換金四円五拾銭正ニ受取借用申処実正也。旦残金之義は首尾能相勤御暇申請其節御
   渡し被下候約若此者取逃欠落等致シ候節は人代成共本金成共貴殿之御差図次第保証之我等引請貴殿ヘ一
   切御損毛御迷惑相懸ケ申間敷候且御家之御作汰御諭達相背キ申間敷候依テ雇人請書如件候也
     明治廿一年二月十一日
                                 岡田郡杉山村 雇人
                                         □ □ □ □印
                                        請人
                                         □ □ □ □印
    向石下村
     □□□□□殿                              (増田務家文書)
 
  (二)   奉行人請証
                                      岡田郡杉山村 美ね
                                           本年二十五年
  右之者当明治十九年一月廿九日より来ル同年十二月二十四日迄一ケ年間農事雇ニ指出候処実正也。給金之
  義ハ金八円ニ取極メ内金五円正ニ請取申候。残金之義ハ追々当人ヘ御渡シ可被下候。若此者小協意ニテ期
  限中暇被下候歟又ハ本人拠事情ニテ暇申請候節ハ日数ニ応シ給金御指引、此者身分引取可申候。右致約定
  候上は一切我等引受聊御迷惑相掛ケ申間敷候。為後証仍テ如件
     明治十九年一月廿九日
                                     岡田郡杉山村
                                         □ □ □ □印
                                         同村
                                         □ □ □ □印
    向石下村
     □□□□□殿                                  (同前)
 
 (一)は作男として一年間、毎月一五日間奉公に出て金七円を受取る証書であり、(二)は二五歳の婦人が、一年間奉公に出て金八円の給金を貰う請証である。文書に出てくる杉山村の某は、美ねの夫か父親であろう。明治二十一年農作男の年給は茨城県において平均一四円三三銭、毎月一五日働いてその二分の一であるから、(一)の例はほぼ妥当な労賃を得たことになる。(二)の例では、水戸市の農作女の年給は八円五五銭であるから、やや低い労賃で働いたことになる(県および水戸市の賃銭は、『茨城県史料 近代統計編』四九九ページによる)。
 農作業奉公は、早朝から深更まで労働するのが常であった。はるか後年、明治四十年(一九〇七)十一月二十六日に認めた書簡で長塚節は次のように奉公人の作業を見ていた。
 
  今夜下女下男は蕎麦をひくとて、石臼をごろごろとめぐらし居り候。縄にして括りたる竹の棒が、ぎりぎ
  りと軋り申候。蕎麦は日のうちに洗って、莚へ干して夜になつてひき申候。……百姓はこれから……壮年
  者は埃臭くなって木の葉搔きに忙しかるべく候(『長塚節全集』第五巻、三七六ページ)。
 
 夜なべの石臼挽きといえば、のどかにひびきそうであるが、石臼は四人がかりで回すものだという。しかもそばは日中に洗って干しておかなければならない。屈強な奉公人は木の葉かきに日中を費す。初冬の、比較的農閑期ともいうべきこの時期でも、彼らは作業に追われる。さらに「此地は旧年内もあと一日にて明後日は正月元日と申ことに有之候」と記した明治四十一年一月三十一日の書簡には、次のように書かれている。
 
  只今下男共縄綯ひ草鞋作りを終りてバシヤバシヤ風呂にはひり居り候(同前三八二ページ)。
 
 大晦日の前日に夜遅くまで、縄ない、ぞうり作りにいそしむのは、当時の作男、作女にとっては例外ではなかった。奉公人にとって、給金だけが問題ではなかった。この直後明治四十三年(一九一〇)に連載された名作『土』の一場面を想起してみるがいい。「その頃十五の女の子では一年の給金は精々十円位のものであった。それでもそれだけの収入の外に食料の減ずることが貧乏な世帯には非常な影響なのである」と書かれている。奉公は「貧乏な世帯」にとっては、子供の口べらしとして重要であった。
 明治二十年前後と明治末期とでは、貧農の置かれている状況が異なる。日本資本主義の発達は、労働力を村内に滞留させず、村外に流出させることもあった。節は、『土』の初めの部分で主人公勘次を二〇里も隔った利根川の開削工事現場に遣る。
 
  秋の頃から土方が勧誘に来て大分甘い噺(はなし)をされたのでこの近村から五六人募集に応じた。勘次は
  工事がどんなことかも能く知らなかったが一日の手間が五十銭以上にもなるというので、それがその季節
  としては法外な値段なのに惚れ込んでしまつた。
 
 頑強な勘次も、土木工事の過激な労働には歯が立たず、一日働いた翌日には、「俗にそら手という手の筋が痛んだので二三日仕事に出られなかつた」ほどである。
 また勘次の娘があどけなく尋ねた「武州」は、「汝の足じや一日にや歩けねえ処」で、「朝から晩までみっしら使あれて……病気に成ったって余程でなくっちゃ葉書もよこさせやしねえ」機織り工場であった。いずれの場合にしても、当時の農民にとって、現金収入を得るのは容易なことでなかった。