明治前期の県の農政施策は、いわば勧農政策としての色彩が濃かった。これによって政府による農民把握は充分に成功したとはいい難い。それは、前項でみたように、養蚕の導入に対し、県の奨励にもかかわらず、農民側はきわめて鈍い対応をしたことからも充分に知られるところである。ここではまだ農民を指導=統轄する体系が樹立されてはいなかったために、官僚政府の農民把握が充分に行なわれなかった。
しかし、明治中期に地主制が確立すると、官僚→地主→農民という上からの農民指導=統轄の体系が確立する。明治後期の農業政策を特色づける上意下達の農民指導=統轄の体系は、茨城県において、明治三十六年(一九〇三)に県―郡市―町村にわたる系統農会の組織化が完成することにより、確立される。この年、茨城県統計書は「県農会一、郡市農会十五、町村農会三百八十トス。内本年設立シタル者町村農会十、市農会一ニシテ全県ヲ通シ完成ヲ告ケタリ」(「明治三十六年茨城県統計書 第三編」)と報告している。
県農会についていえば、「明治三十二年農会法発布以前ヨリ設立セラレタルモノニシテ……現在役員ハ県知事ヲ会長トシ」(明治四四年「産業調査書」)とあり、その事業は、「農政上ノ事ニ関スルモノヲ主要ノモノトシ其ノ実行ハ多ク下級農会ヲ通シテ之ニ当ラシメ之ヲ指導督励シ」、県下における最上級の農事機関の団体として、県の農業施策を下級農会に徹底させることを任務としていた。
郡農会も多く郡長を会長とし、郡役所の書記を役員に宛て、さらに事務所を郡役所に置くなど、官製の団体そのものの観があった。その事業も、下級農会を督励して活動を活潑にさせること、県および上級農会の指導にしたがって農事改良をすること、農業者の指導ならびに知識の啓発に努めることなどが挙げられている。しかしその評価となると「未タ充分ノ活動ヲ事実上ニ現ハスヲ得サルモノアリ」と、任務の重大さに此して評価は低い。
系統上最下級に位する市町村農会は、直接農業者を指導する衝に当る機関であるが、明治四十四年(一九一一)においても、「萎靡不振ノ状況ニ在ルハ甚ダ遺憾トスル所」と、調査が嘆くほど活動は低調であった。その理由としては「一般会員タル農業者ガ此機関ヲ重要視セサルコト此機関ノ任ニ当ル役員ノ熱誠未タ足ラザルコトニ由ルヘキヲ信ス」と断言されている。
ところで、茨城県が農会設置規程を発令するのは、明治二十七年九月一日、茨城県訓令第三七号によるのであるが、同日に発した訓令甲第一二号において「農業改良上目下ノ急務ニシテ其組織ノ如何ハ改良ノ成否ニ関スルコト不尠ニ付」郡市役所、町村役場は「此際農会ノ設立ヲ誘導し其目的ヲ貫徹候様厚ク注意ス」るように求めている。このような躍起の要請にもかかわらず、農会が組織を完了するのに、一〇年の歳月を要しているばかりか、その活動も精彩を欠くものであった。
系統農会のうち、「萎靡不振ノ状況ニ在」った町村農会にあって、玉村農会の活動は注目を惹いた。茨城県中央農事講習所の卒業生が結成した茨城農会(明治二十三年に設立)の機関誌『茨城講農会報』第三五号(明治二十八年五月)は、「編者曰く左の一項ハ本県豊田郡玉村農会の本年度春季総会の決議案にして最も有益なる事項と認たるにより玆に登載して実業家諸氏の参考に資せん」として、決議案の全文を紹介している。
豊田、岡田、結城三郡の豊岡城農会(明治二十六年に結城郡農会と改称)が設立されたのは県内でも早期に入る明治二十五年であり、この地域の町村農会も明治三十年には二七の全町村に設立をみるなど、農会設立の動きは活潑であった。その中でも倉田竜次郎を指導者とする玉村農会の設立は最も早く、明治二十六年に設立されている。
倉田は玉村大字原宿に明治四年に生まれたが、東洋英和学校在学中父を亡くし、学業半ばで退学し、家産を相続して農事研究に専心した。茨城農事講習所、東京高等農業校(東京農業大学の前身)講習会を修了している。玉村農会長を二期、さらに結城郡農会常任幹事なども勤め、農事講義録、肥料教科書などを著している。彼の業績のうちでも有名なのは、再度村農会長に就任したさいに行なった野ネズミの駆除である。当時結城郡内における野ネズミの被害は甚大であったようで、「明治三十二年、茨城県結城郡とその隣接地区三四八七町歩にわたる農地の被害が発生したおり、野鼠チフス菌を用いて行なったものが」(宇田川竜男『ネズミ』)わが国における本格的ネズミの駆除であったとされる。茨城県における歳出臨時部の衛生補助費は、明治三十一年に四九三四円、三十二年に六万五八四一円、三十三年に五六七九円と、三十二年に激増しているが、これは数字のミスプリントでなく、野鼠駆除と何かの関係があったのではないかといわれている。
また「郡農会にあっては、耕地整理を励まし、土地の改善を奨め、米麦の共同販売を創めて、当業者に資益し、蔬菜の栽培を勧めて、其声価を市揚に発揚し、堆肥製造の改良を計り、緑肥栽培を奨励した」(『茨城県農業史』第五巻)ため、大正八年(一九一九)大日本農会から表彰されている。
玉村農会の決議案(明治二十八年度春季総会の決議案が『茨城県講農会報』にみられる)にも、倉田の発案によると思われるものがみられる。
右の決議案第二号、「農産物共同販売法」では、当分の間共同販売する農産物として、米麦のほか、繭、大小豆、棉、藍が挙げられている。棉や藍は斜陽作物であって、共同販売するほどの収穫は得られなかったのであろう。共同販売の主旨は、「奸商の籠絡手段に陥らざる様一致共同」することにあったが、繭については第三条において詳細な規定を設けはしたものの商人資本の奸計に計画はあえなく潰えたもののようである。
またこの時点では、堆肥製造、緑肥栽培のプログラムはなく、決議案第二号で肥料共同買入法を掲げているのみである。しかし倉田の農業に対する展望は、かなり確実なものであった。この時期に特有農産物の導入を図り(決議案第六号)、蚕業にとどまらず烟草、果実を試作することを提案している。これによって、現金収入の途を拓こうとしたことは明らかである。さらに、養豚、養蜂、養鶏の導入も意図している。養豚については、家業の余暇に飼い、肥料製造の用に供することがうたわれている。養蜂はほとんど期待されるところがなかったようで、一組か二、三組に限るとしている。養鶏についていえば、各家五~二〇羽を飼養し、鶏卵の売却代金は毎月郵便貯金として不慮の出費に備えるよう奨めている。しかも、将来需要が多くなり、事情が許せば数百羽もの大型飼養が可能になろうが、「猥りに軽挙暴進あるべからず」としている。明治二十八年に商業的農業をめざした倉田竜次郎の村づくりプランは、県内でも類を見ることはできない。