このような状況では、とくに地主層にとって、耕地整理により収穫物の収取を図ろうとするのは当然のことであった。明治三十七年七月に石下町興正寺に、新井球三郎を座長として旧石下町、玉村、豊田村の地主有志により耕地整理発起人協議会が開かれた。ここで発起人事業規程や発起予算が議定され、八月には測量設計のため、県に技師派遣を要請し、九月に測量が着手された。この動きに対して、耕地整理反対運動も激しかった。
Ⅱ-5図 正装した新井球三郎
筵旗を押立てて耕地整理反対の運動を起し農民を煽動し、その結果竹槍隊の出現を見たるが如き事の難渋
なるは名状すべからざるの勢ありと雖も東奔西走熱誠を以て関係町村の土地所有者が農民と幾多の折衝を
重ねたるも其間各種多様の障碍に遭遇したるも不屈不撓困苦難艱を排除し至誠一貫事に当り遂に八百五十
余名の土地所有者を説得し賛同を得るに至れり(前掲『茨城県土地改良六〇年誌』)
右のように発起人による関係土地所有者の説得により、賛同を得たことは、この耕地整理事業の特質として高く評価されている。そして、明治三十八年十二月五日に測量を完了した。土地所有者数八五七、面積六六九町歩に及ぶ耕地整理の認可申請書が提出され、明治三十九年二月七日、「石下町、玉村、豊田村聯合整理地区」として総業総会が開かれた。この後間もなく五箇村(現千代川村)が区域に編入され、「石下町外三ケ村耕地整理地区」と改称された(二月二十一日)。組合員数は八五七、面積が六八五町におよんだ。
事業は明治四十年に一応の竣工をみせ、七月三日に竣工式が挙行された。この事業の成果は次のとおりである(新井省三編『石下町外六ケ村耕地整理誌』)。
(イ)灌漑排水の秩序整然として水利の疏通極めて良好なり
(ロ)降雨多量なりし夏秋の季節猶浸水なく稲依皆適順の成育を遂げたり。
(ハ)田区整然、道路縦横に貫通し、交通運搬頗る便利にして、農作上労力の節約を得ること多大なり。
(ニ)従来の湿田は一変して良好なる乾田となりたるを以て、二毛作に恰適せるのみならず其の米質を改善
するの効果亦著大なるものあり。
(ホ)整理地区中の原野及至池沼の不毛地は変じて整然たる稲田となり、即ち従前の田五百七十四町歩余、
畑八十九町歩余なりしもの、整理後に於ては田六百五十一町歩余、畑八十三町歩余となり、田は七十
七町歩を増し、畑は五十一町を減じ、差引き全体に於て二十五町歩の増歩を見たり。
(ヘ)四十年度稲作の収穫高は九千百八十五石にして平年に比し二割二分の増収を見たり。
右の成果は近隣地域にも波及効果を与えた。明治四十四年、整理区域は拡張され、宗道村、蚕飼村(現千代川村)および三妻村(現水海道市)が加えられた。耕地整理法の改正により、従来の整理地区が整理組合に改称されていたので、結城郡石下町外六箇町村耕地整理組合となった(組合長新井球三郎)。事業は二〇年を要し、昭和三年に完了する。区画整理面積八一七町歩余、組合員一〇五八人であった。
耕地整理の経済的効果は、所理喜夫氏の評価によれば(所理喜夫「石下町」、『茨城県史市町村編I』)、第一に極度に水害が減少した結果飛躍的に生産性が増大したことと、第二に地価が上昇したことである。さらにいえば、用水路の整備によって湿田が乾田になり、二毛作可能田は二三五町歩余になった。
所氏は次のようにこの事業を評価されている。
この耕地整理が地主層にもっとも豊かな結果をもたらしたことはいうまでもなかった。反当収穫高も平均
二石四斗弱、つまり六俵に上昇した。川西に比し水旱害の度数もまったくといってよいほど少なくなり、
加うるに賃織りなど農間渡世の便にもめぐまれている。川東の小作農には、精農であれば自立経営を営み
得る条件はあったとみるべきだろう。