県会議員の選出

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明治末から大正期にかけては中央・地方ともに議員の活動が活発化する。そして大正時代には政党の活動も目ざましく、自由民権運動が活発であった明治期とは異なる傾向を示し、「大正デモクラシー」と呼ばれるように、政党政治の華やかな時代を現出した。政友会と憲政会の両党の対立が激しい時代で、それは大正七年(一九一八)九月政友会の原総裁を首班とする、典型的な政党内閣が成立して以来一層強まる傾向をみせた。茨城県会でも大正八年の選挙の結果政友会が二二名で、議席の過半数を占めたのに対して、憲政会が一五名、中立が四名という割合で、この頃は議長・副議長とも政友派の議員に占められ、また力石県知事も政友派の役人であった。議長は結城郡五箇村(現水海道市)出身の飯村忠七であった。
 さてこの当時石下地方を含む結城郡全体では、選出議員の数は三名であった。大正十一年の例では郡下が、第一分区から第三分区までに区分され、その区分町村をみると次のとおりである。
 
  第一分区……議員数一名
  結城町 絹川村 上山川村 江川村 山川村 中結城村
  第二分区……同  一名
  宗道村 石下町 玉村 蚕飼村 豊加美村 総上村 大形村 安静村 西豊田村 下結城村 名崎村
  第三分区……同  一名
  水海道町 大生村 五箇村 三妻村 豊田村 飯沼村 岡田村 大花羽村 菅原村 豊岡村
 
 

Ⅲ-1図 明治末年頃の茨城県庁舎(茨城県議会史)

 現在の石下町域はこの選挙区では第二、三分区に所属したのであるが、郡下から三名の県会議員というのは、他の郡とほぼ同数という状況であった。当時の郡別の定数は
 
  東茨城三 西茨城二 那珂三 久慈三 多賀四 鹿島二
  行方二  稲敷三  新治四 筑波二 真壁三 結城三
  猿島三  北相馬二
 
というもので、大体が二~三名という定数であった。そして明治末から大正期にかけて、結城郡選出の議員として活躍したのは、岡田村(石下町)の長塚源次郎、大形村(現千代川村)の渡辺亀三郎、西豊田村(現八千代町)江面島造の三名であった。当地からは国生地区の長塚一人であったわけである。
 三名の議員定数で選挙が争われたが、それは時により激しい選挙戦となったこともある。その様子の一端を、当時の「いはらき新聞」紙上より採録してみよう。まず明治四十四年九月一日付の紙上では、結城郡下の「選挙界の状況」として次のように報じている。
 
  結城郡は新井球三郎氏の後継者と目されたる新井善次郎氏が、大勢利あらざるものと見て断念したるが為
  め、現在候補者たるは長塚源次郎、飯村忠七、江面島造の三氏のみとなれり、結城町方面にて一名の候補
  者を出さんとは同方面一般の希望にて、藤貫健吉氏など色意なきに非ざるも、未だ態度を明らかにするに
  至らず、而して石下町方面にては新井氏の断念に依り、新候補物色中なるも未だ其人を得るに至らず、従っ
  て現在の所至って平静の形勢なるも、結城、石下両方面に於て何人かが出づべきは、疑うべからざる事実
  なるを以て、或は又意外の混戦を見るに至らんも知るべからず
 
 さらに九月十日付の記事では、結城郡下も競争に入るのであろうと予想して、次のように報じている。
 
  結城郡は江面島造氏が運動を開始し居るの外、飯村忠七、長塚源次郎の両氏も未だ公然馬を立つるに至ら
  ず、気の知れぬ化物の如く出るのやら出ぬのやら不明の新井善次郎氏は、依然不明なるに搗てゝ加えて、
  長塚氏の決心未だ充分ならざるやの説あり、一体不振を極め居れるが善次郎が愈々断念するとすれば、其
  一派より必ず何人かゞ出づべく、結城町方面に於ても昨報の如く風雲漸く動かんとしつゝあれば、長塚氏
  の進退如何にかゝわらず、多少の波瀾は免かれまじき事なるべし
 
 結局この時の選挙では立候補者の動きが極めておそく、一時は無競争かと思われる形勢にまでなったが、しかし当地出身の長塚源次郎も出馬することになり、一転して激戦となったのである。九月二十三日付の「いはらき」新聞は次のような状況記事をのせている。
 
  萎微不振を極めたる結城郡も大串浩氏起ち、長塚源次郎氏出で多少色めきたるに、結城方面の低気圧亦降
  下し、北島隆氏突如名乗り出でたりとの報あり、之にて定員三名の所江面、飯村、大串、長塚、北島の五
  名となれる訳なるが、江面氏は逸早く運動に着手したる丈地盤牢として抜くべからず、大串氏は新井派の
  後援あるも、其地盤長塚氏と相接し殊に新顔なるが為め比較的振わざるの観あり、北島氏に至ては既に立
  遅れの気味なきに非ず、苦戦一方ならざるべきも経験ある同氏の事なれば、或は回瀾を既倒に回すの策あ
  るも、亦知るべからず
  臣源次郎氏が一昨日に至り断然立候補を承諾したるは昨紙報ずる所なるが、右は同氏推薦者の重なる者が、
  同日宗道丸屋に於ける会合の結果決定したるものにて、昨夜改めて同所に於て正式の推薦会を開き、運動
  方針等を定めたる筈なるが、同氏多年の勢力抜くべからざるものあるを以て、其運動は案外容易なるべし
  と噂さる
 
 結局この選挙では長塚、江面、飯村の三名が当選したが、その選挙戦はなかなかに大変であったようである。そしてこのような少数激戦の様相は大正四年の改選時でも同様であった。同年九月二十二日付の「いはらき」新聞は「県会政戦――結城郡各派勢力」と題して、次のように報じている。
 
  結城は三名の定員に対し四名の候補者現はれ、互に猛烈なる運動を試み、勢力優劣の定めなきものありし
  が、期日切迫と共に大勢次第に変転して、漸く個々の色彩を帯ぶるに至り、最近の形勢にては多年の歴史
  的情勢として、長塚源次郎氏優位を占め、北島隆、江面島造の両氏之につぎ、中島留三郎氏最も苦戦の状
  態にあるが如しと、
 
 選挙の結果は新聞記事の通りに終ったが、その内実は激烈であって選挙違反も表面化し、当選者の運動員が取調べをうけるまでになった。それは「畢竟(ひっきょう)長塚、江面両氏の勢力を妨害せんとする一派の、中傷的密告に出でたるものゝ如く」(同日付「いはらき」新聞)といわれたが、とにかく県会議員の選挙は毎回少数激戦の状況であった。