明治期までの交通体系

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近世から明治期にかけて、町域を含む鬼怒川沿岸地域の交通は水運に依ることが大きかった。明治三十三年(一九〇〇)からは内国通運株式会社の蒸気船「通運丸」が、水海道と東京両国の間を一日一回就航するなど鬼怒川水運は隆盛をきわめていた。通運丸は鬼怒川から利根川に入り、さらに明治二十三年に利根川と江戸川をつないで開通した利根運河を通り、江戸川に入るといったコースで運航された。
 一方、常総鉄道開通前の陸上交通は、馬車か人力車ぐらいが往来する未発達な状態であった。茨城県下にはじめて鉄道が敷設されたのは(明治十八年に日本鉄道の古河駅が設置されていたが)路線という場合、水戸鉄道株式会社の小山水戸間であった。その後水戸鉄道は日本鉄道に合併された。日本鉄道海岸線(のちの常磐線)は明治二十八年、友部土浦間、二十九年、土浦田端間、三十年に水戸土浦間と順次開通し、三十一年に全通するなど現在の県内の主要な線はすでに開通していたが、鬼怒川中流域については物資の集散地などがあるにも拘わらず、とり残された形になっていた。