石下銀行の合併

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日露戦後、「農村の悲況」と呼ばれたように、日本農業は、商品経済の発展に対応できずにいたが、破局的な状況を迎える前に、第一次世界大戦の勃発による日本経済の活況に救われた。大正三年(一九一四)第一次世界大戦のはじまりから、同八年ベルサイユ条約の締結まで戦時経済の好況は「成金景気」といわれるほどであった。都市の工業は農村の過剰人口を吸引し、さらに農業労賃の上昇をもたらした。農家経済の商品経済化はすすみ、農村は挙げて現金収入をもたらす副業熱にあおられていた。
 しかし戦時景気の反動は早くも大正九年には訪れる。三月には株式商品市場の大暴落、四月の銀行破産と取付け騒動により、好況は一気に崩落したのである。この経済変動のあおりを受け、大正十二年町域における唯一の銀行であった石下銀行は、土浦の五十銀行に合併される。
 石下銀行の創業は明治三十年(一八九七)八月四日である。明治三十八年の営業報告書(常総新聞 明治三十八年一月二十六日)によれば、頭取新井重左衛門(石下町)で、取締役には増田八郎(岡田村)、山中直次郎(石下町)、黒川平五郎(石下町)、飯村金作(石下町)、中山権左衛門(玉村)など、町内の錚々たる産業人が名を連ねている。町域外では草間輔二郎(大花羽村)、松村豊次郎(宗道村)が監査役になっている。草創時の資本金は六万円、翌年には一五万円に増資している。しかし明治三十八年の貸借対照表では、払込未済資本金が、半額の七万五〇〇〇円になっている。以後合併時までに、公称資本金は、それぞれ四五万円、六〇万円に増資された(株式会社常陽銀行『常陽銀行二十年史』)。このことは大戦期の収益が好調なときは、それに見合った増資が必要であったろうし、逆に反動恐慌期にも、業績不振を増資によって乗りきろうとした銀行の政策の反映であり、石下銀行に限ったことではない。
 銀行の当初の業績は順調であったとみてよい。さきの明治三十八年の損益勘定をみても、純益金が五一七六円余あり、配当率も九分二厘になっている。さらに大正三年時の配当率は九分になったものの、業績は順調であったとみてよく、大正二年三月には筑波郡上郷村(現つくば市)、八年十一月には同郡豊村(現伊奈町)に支店を開設している。大正十年に県内銀行三三行のうち、無支店の銀行は一五行もあり、支店一の銀行は七行におよぶから、石下銀行は、規模の上からみれば県内でも上位に入るものであった。
 しかし、預金と貸付金についてみれば、大正三年には、貸付金が預金の一・七四倍にも達し、大正十年でも一・二五倍に達し明らかにオーバー・ローンである(以上の数字については『茨城県史近現代編』による)。しかも貸付金は証書貸付や手形貸付によるもので、反動恐慌のさ中にあっては、回収が困難なことは、容易に推測される。大正十一年十二月二十日、茨城県内務部長が石下銀行代表者に宛た「産親第二一号」で「万一の場合に応ずるの策を建て且つ支払準備の充実を図り、常時、応急の準備に欠くる処なき様注意」(『常陽銀行二十年史』)することを通牒しているのも、あるいは、この事情によるかもしれない。
 他方において、県も政府の指示に従い、知事、内務部長が率先して銀行合併を勧誘した。これをうけて、県内本店銀行を組合員とする茨城県銀行組合は、大正十一年二月十九日に「銀行合併促進に関する決議」を採択した。決議は「商工業の発達に伴ひ各種の企業漸次大規模に赴き資金の需要増加し取引の範囲も亦拡張」したと、独占段階において産業の規模が一般的に拡大したため、当然資金需要も大きくなったとし、「小規模の銀行に於ては到底其の要求に応ずること困難なるのみならず、銀行の分立は徒に其の競争を惹起し、平時にありては多額の経費を要し営業上の不利益を招くのみならず、一朝財界反動時に遭遇するときは相互救済の途なく、其の被害も亦想像するに難からず」と小規模銀行の乱立の弊害を述べている。決議によれば、乱立によって過当競争が激烈になり、そのため経費が増大し利益が低下するというのである。そればかりでなく、大正九年のように取付けに遭遇すれば、相互に資金を融通しあうこともできないともいい、反動恐慌の影響が色濃く反映されている。したがって「銀行を合併して其の規模を大にし、基礎を確実にすると共に合併励行の結果支店制度を拡張して以て取引の円滑を期するの要あり」(地方経済社編『茨城県銀行会社録』)としている。
 このような銀行合併要請をうけ、県内では、大正十三年以降合併は急速に進み、ほぼ昭和二年にはほとんどの県内中小銀行が、県下銀行の代表ともいうべき五十銀行、常磐銀行に合併された。
 石下銀行と五十銀行の合併は、早期に行なわれ、当初大正十二年九月に予定されていたが、九月一日に関東大震災があり、九月三日から十四日まで、県内の銀行が休業する事態も起り、合併は十二月十六日まで延期された。合併は対等合併で、両者の株式比率は一〇対一〇である。五十銀行は、石下銀行の本店、上郷支店、豊支店を傘下の支店とすることになった。