地主小作関係の変化

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前項においては副業としての養蚕業が強調されたが、農産物の総産額に占める蚕種を含めた繭の産額は、結城郡では大正元年で一三%、十五年で二七%を占めるが、米は大正元年三五%、十五年三八%と磐石の重みを占めていた。養蚕業が低い地位を占めていた飯沼村の手作り地主高島家の収支計算を、明治四十四年と大正十年についてみたのがⅢ-3表である。明治期に比して大正期は収入も支出も大幅に増加しているが、これは物価の騰貴ばかりでなく、当家の貸金、小作地の増加によることがうかがえる。貸金利子として計上されているのは、明治四十四年には九口にすぎなかったが、大正十年には四五口にも増加している。また雑収入についてみれば、明治期は小麦、大豆、縄、桑生葉代、粗朶の売払代であったが、大正期には、ほとんどが立木売渡代となっている。平地林を利用した山林経営によるものである。
 
Ⅲ-3表 地主経営の収支比較
明治44年大正10年
 
収入合計
円     
1 249.140(100.0)
円     
8 909.70(100.0)
 米代金891.440( 71.4)3 772.70( 42.3)
 雑収入131.685( 10.5)2 992.61( 33.6)
 貸金利子81.090( 6.5)650.69( 7.3)
 小作金144.925( 11.6)1 433.55( 16.1)
 その他60.15( 0.7)
支出合計1 134.385    4 332.31    
差引残144.755    4 577.39    
「その他」は養鶏収入である.高島家「入金銭出入帳」(明治44年1月30日,大正10年2月8日)による.


 
 しかし、一〇年間に三二倍もの純益をもたらすようになったのは、米の売却代金によることは、表から明らかである。表では明治期の収入の圧倒的部分が米代金によって占められていたのにかかわらず、大正期には相対的に米代金の地位が低下しているようにみえる。しかし、実数でみれば四倍もの延びを示している。米の代金は小作地から現物納として納入されたはずであるから、小作地経営が大正期においても、高い収益をもたらしたとみてよい。
 結城郡における小作地率の推移をみれば、明治後期の傾向を継承し、高い比率を維持している。しかしこれも水田においては大正六年、畑においては大正八年を境に、ゆるやかな下降傾向をたどっている。
 このように高い小作地率は、農民を村外に出すのではなく、むしろ村内に滞留させている。Ⅲ-4表は町域の旧町村における農家戸数の推移をみたものである。
 表によれば、旧町村ではいずれも総戸数の増加がみられる。しかも旧石下町を除けば、戸数の増加に伴って、農家戸数も増加している。商業あるいは、醸造業、織物業の微弱な発展がみられる旧石下町では農業戸数が増加しなかった分だけ農家率は低くなっている。農業率についていえば、川東の二村が八〇%台を示しているのに対し、川西の二村は九〇%台になっている。さらに専業農家率も若干ではあるが、川西の方が高い。脱農化も労働力の販売も川西において、より困難であったことがうかがえる。
 
Ⅲ-4表 農家戸数の推移
石   下   町豊   田   村玉       村岡   田   村飯   沼   村


























































































大正
2年

657

375
%
75.8

120

495
%
75.3

352

264
%
78.6

72

336
%
95.5

365

198
%
61.3

125

323
%
88.5

394

265
%
68.5

122

387
%
98.2

644

437
%
76.8

132

569
%
88.4
3年66436974.112949875.035226177.77533695.536520061.912332388.539526768.312439199.264443576.313557088.5
4年65436073.213249275.235226077.86533093.836520061.912332388.539426767.8127394100.064243576.413456988.5
5年65435670.614850477.135226577.86533093.836522278.76028277.339425164.413939099.064343676.413557188.8
65735673.412948573.835327081.16333394.336526381.46032388.540525664.214339998.564647677.513861495.0
7年66035272.613348573.535224973.98833795.336526582.65732288.240631780.97539296.664647677.314061696.0
8年66035272.513348573.536224973.98833793.136526882.75632488.840631780.97539296.664247677.114061696.0
9年67034871.613848672.535224973.98833795.736526983.05532488.840631780.97639296.664247677.314061696.0
10年67033969.814748672.535224973.98833795.736526983.05532488.840631680.97939296.664147677.314061696.1
11年67033969.814748672.535224973.98833795.736526581.85932488.840631379.87939296.664247677.314061696.0
12年67031568.915148672.540024973.98833784.336525879.66632488.840531279.87939196.664347777.214161896.1
13年78032567.715548061.540024973.98833784.336525478.47032488.843633180.77941094.064447777.114261996.1
14年78032567.715548061.539524973.98833785.336524776.27732488.844733681.07941592.864547877.114262096.1
15年78032567.715548061.539524973.98833785.336524274.78232488.844733681.07941592.866747877.014362193.1
各年度『茨城県農業統計』による.


 
 小作地の増加と農民の村内への滞留とは、農家の耕作規模を規定せずにはおかない。Ⅲ-5表は、耕作規模別農家数を結城郡と茨城県について比較したものである。茨城県においては、一~三町を耕作する農家が多いことで全国の傾向と異なっているのであるが、これは畑地の多いことが、農家の経営規模を大きくしているためである。しかし結城郡についてみれば、一町以下の耕作が圧倒的に多い。構成比でみれば、この層が結城郡では六〇%を超えるのに対し、茨城県では五五%以下にとどまっている。その分だけ一~三町層が結城郡では少なくなっている。
 これを旧町村別についてみれば(旧町村の数字については、各町村の事蹟簿によった)、川東の町村では、一町以下層が旧石下町(大正十五年)で六八%、豊田村(大正三年)でも六八%と、圧倒的部分がここに位置し、反対に川西の二村では岡田村(大正三年)では四五%にとどまり、飯沼村でも五六%である。さらにいえば川東の農民が耕作する土地の零細性は決定的ともいえる。五反以下の農家は旧石下町で四六%にも達し、豊田村で四〇%である(岡田村二一%、飯沼村三〇%)。この零細耕作に加え、高額な現物小作料が農民生活を圧迫していた。
 大正元年と十年に、全国的規模で、小作慣行の調査が行なわれた。大正期になると西日本を中心として小作争議が頻発し、これへの対応が農政の重要課題であったためである。両次の調査について、郡段階の結果が出ているので、みておこう(両次の小作慣行については、『茨城県農業史』第三巻によった)。
 
Ⅲ-5表 耕作規模別農家数
結       城       郡茨    城    県
5反未満5反~1町1町~2町2町~4町3町~5町5町以上5反 
 未満
5反~
1町
1町~
2町
2町~
3町
3町~
5町
5町 
以上
大正元年3 831(32.4)3 343(28.2)2 751(23.2)1 212(10.2)528(4.5)170(1.4)(26.9)(26.6)(26.9)(13.5)(5.1)(1.0)
2年3 854(32.4)3 350(28.2)2 743(23.1)1 215(10.2)540(4.6)161(1.4)(26.9)(27.0)(27.5)(12.9)(4.7)(1.0)
3年3 875(32.6)3 336(28.0)2 754(23.1)1 234(10.3)534(4.5)166(1.4)(26.5)(27.1)(27.6)(12.9)(4.8)(1.1)
4年3 849(32.4)3 368(28.3)2 751(23.1)1 239(10.4)532(4.5)152(1.3)(26.2)(27.5)(27.8)(12.9)(4.5)(1.1)
5年3 765(31.9)3 376(28.6)2 743(23.2)1 264(10.7)522(4.5)150(1.3)(26.0)(27.5)(28.8)(13.0)(4.5)(1.0)
6年3 859(31.6)3 444(28.2)2 720(22.3)1 450(11.9)543(4.5)152(1.2)(24.2)(29.1)(28.2)(13.0)(4.5)(1.0)
7年3 710(30.8)3 540(29.4)2 742(22.8)1 356(11.3)544(4.5)148(1.2)(23.7)(29.1)(29.0)(12.9)(4.3)(1.0)
8年3 604(29.8)3 543(29.3)2 720(25.5)1 511(12.5)571(4.7)146(1.2)(23.6)(29.2)(28.8)(12.2)(4.3)(0.9)
9年3 611(29.6)3 503(28.7)2 792(22.9)1 554(12.8)588(4.8)137(1.1)(23.9)(29.0)(29.1)(12.1)(4.3)(0.9)
10年3 583(29.4)3 520(28.9)2 801(23.0)1 579(12.9)578(4.7)134(1.1)(23.9)(28.9)(29.2)(12.1)(4.2)(0.7)
11年3 616(29.4)3 587(29.2)2 801(22.8)1 580(12.9)571(4.6)131(1.1)(24.5)(28.9)(29.0)(12.9)(4.0)(0.7)
12年3 617(29.4)3 589(29.2)2 814(22.9)1 577(12.8)570(4.6)130(1.1)(24.5)(28.8)(29.2)(12.8)(3.9)(0.8)
13年3 564(28.9)3 577(28.9)2 944(23.9)1 556(12.6)561(4.6)124(1.0)(24.5)(29.0)(29.4)(12.8)(3.8)(0.5)
14年3 585(29.0)3 598(29.1)2 960(23.9)1 559(12.6)547(4.4)122(1.0)(24.8)(29.0)(29.2)(12.7)(3.7)(0.6)
15年3 588(29.0)3 617(29.2)2 978(24.2)1 555(12.6)534(4.3)120(1.0)(24.8)(29.0)(29.3)(12.6)(3.7)(0.6)
( )は構成比を示す.ただし茨城県の数字は構成比である.各年『茨城県農業統計』による.


 
 調査結果により、小作料についてみれば、Ⅲ-6表のようになる。
 
Ⅲ-6表 小作料の変化
A契約
小作料
B契約
小作料
見積金
額  
C平均
実質小
作料 
D平均
実質小
作料見
積金額
E平均
収穫高
F平均
収穫高
見積金
額  
A/EC/EB/FD/F
 
 
大正元年
 
一毛作
石 
0.900
石 
0.900
石 
1.500
% 
60.0
% 
60.0
二毛作1.1001.0001.80061.155.6
大正10年一毛作1.1001.0002.00050.050.0
二毛作1.0001.0002.00055.050.0
大正元年大 麦0.6030.5971.89931.831.4
大 豆0.4120.3820.79152.148.3
大正10年大 麦0.666円 
11.930
円 
11.000
円 
34.500
 
34.6
 
31.9
大 豆0.366
『小作慣行調査』による.大正元年の大麦については新治,真壁,結城,猿島,北相馬郡の平均.大豆については新治,結城,猿島,北相馬の平均,大正10年の畑小作料は東茨城,結城,猿島の平均である.田は結城郡の数字である.田は中田,畑は中畑の数字のみを計出した.


 
 まず田の小作料についてみれば、大正元年の小作料率はきわめて高く、県平均の実質小作料五一・二%を大きく上回っている。大正十年にはほぼ県水準に近くなるが、地主取分はむしろ増加している。
 畑小作料は、水田を上回る高水準を示している。県平均の金納小作料は、大正元年でも一八~二五%、大正十年は一四~一八%にとどまっていることと比較すれば、率の高さは明らかである。茨城県では、旧水戸藩領が、旧幕時代から、畑貢租を金納としていたため、畑小作料も金納とされるのが支配的であった。しかも畑の生産性は低いので、小作料率も低く抑えられていたのである。しかし、結城郡においては、「大麦ト大豆ノ組合セ」が支配的であり、特例として「若干金納」のものがあるにすぎない。これについて大正十年の調査は、つぎのように述べている。
 
  往時ハ金納又ハ現物納区々ナリシモ、金納ハ穀価騰貴ノ為地主カ小作料引上ノ意味ヲ以テ漸次現物ニ変更
  シ、其現物ハ概シテ大麦ト大豆ノ組合ノミナリ近時陸稲又ハ小麦等ノ穀物ヲ納付スルモノアルニ至リ、尚
  将来ニ至ルモ猶ホ現在ニ大ナル変化ナカルヘシト推知セルモ、養蚕又ハ煙草作ノ関係上、地主ニ依リテハ
  金納若クハ代金納等ノ増加スルコトナシトセルノ傾向アリ
 
 右のように、小作料の種類は地主の恣意によって決定されたとみられるが、大正十年の調査によれば、地主、小作関係が、口約束だけの古い慣行によって決定されずに、契約による小作慣行がみられるようになる。それが明確にされるのは、小作料の怠納処分である。大正元年には、期限内に納付しないときは減引きを与えない、一部の未納は翌年まで猶予する、全部未納が一年以上あるいは一部未納が三年以上になれば、小作地を引上げるとあり、慣習的色彩が濃いが、大正十年には、未納の場合「滞納者本人若ハ保証人ヘ再三催告ナシ、若シ徴収ニ能ハサルトキハ小作契約ヲ解除スル」とあり、契約に保証人がかかわるようになっている。
 また小作料の減免においても、刈分けの慣行がなくなっていることが指摘される。結城郡では、不作による小作料の減免はあまりみられないのであるが、大正元年には、天候によって甚だしい不作のとき、地主六、小作四の割合で、作物を刈分ける例がみられた。刈分けは主な地主の協議によって決定されるのが通例であり、小作人の事情によるときは、関係する地主が実地検査のうえで決定することもあった。大正十年では、四〇%以上の不作に限り一〇~一五%を減免するというように、明確に規定されるようになる。
 右のように、地主が優位に立った小作慣行について、調査は「小作関係改善ノ問題点」とし、次の二点を指摘している。
 
  (一)地主小作人間ニ於ケル利益分配ヲ適当ナラシムルコト
   現在ノ小作料ハ地主ト小作ニ於ケル利益ノ分配甚ダ不均一ナルノ傾向アルモ、両者何レモ頗ル冷静ノ態
   度ヲ持シテ更ニ意ニ介セサルカ如キ現今ノ状態ナルモ、世運ノ進展ハ漸次思想界ノ変化ヲ来タスノミナ
   ラス、農民ノ生活益々複雑ヲ極メ、逐々両者ノ融和ヲ欠クニ至ルハ自然ノ形勢ナリ。宜シク之等利益ノ
   分配ヲ均等ナラシメテ、他日ノ禍根ヲ未然ニ防止スルノ要ナルヘキヲ認ム。
  (二)小作料ヲ均等ナラシムルコト
   現在ノ小作料ハ地主ニ依リ頗ル均等ヲ欠ケリ。是人口増加ノ結果耕地ニ不足ヲ来シタルカ為、地主ニ於
   テ自ラ小作料ヲ引上ケタルモノアリタルニ依ルヘシト雖モ、之等ハ亦逐々小作人ノ悪感ヲ招クノ基因タ
   ルヘキヲ以テ、玆ニ小作料ノ均等ナラシムルノ必要アルヲ認ム
 
 右の(一)では高い小作料を課さないようにいい、(二)では小作料を引上げないように地主に対し注意を促している。大正期も後半になれば、稲敷、北相馬など利根川沿岸地域に小作争議が発生してくるのであり、その要求が小作料の減額と小作契約の継続にあり、郡内にみられる高率高額小作料が、争議を招きかねないとみた調査員の危機意識をみることができる。