ムラの諸集団

815 ~ 822 / 1133ページ
ムラの内部には、大小様々な集団が重層的に存在している。そして中には、ムラの運営と直接的に関連しない「講」と呼ばれる信仰的・娯楽的要素を加味する集団も多い。以下こうした内部集団の構成員に注目し、性別、年齢別、世代別などの視点から大正当時のムラの諸集団をみていく。
 
〔子供の集団〕
天神講
 子供会が組織される以前の子供たちの集まり。蔵持では、毎年八月に小中学生が八幡社の神輿を担いで各戸を回り、駄賃を貰って歩いた。そして夕方にはヤド(宿)となっている家に集まり共同飲食した。
 このように祭礼の主役となるのは子供たちで、子供会が組織された今日でも神輿を担いで各戸を回り歩くのは、町内どこの地区でもみられる祭りの光景である。
 

Ⅲ-7図 おみこし(旧6月21日,増田務氏提供)

 
〔男性の集団〕
ワカイシュ
 いわゆる若者組は、ワカイシュが大正期に青年会として統合され、その後青年団に再編され現在に至る。だがこうした名称の変遷と共に戦争以降若者が村外に流出したことから、どこの地区でも青年団としての名称は存在するものの、活動自体は希薄になっている。以下では往時のワカイシュの活動をみていく。
 小保川では、小学校を卒業すると近所に住む若者に勧誘され、四、五月に加入した。加入に際しては長男と二、三男の区別はなかったが、奉公人などは加入出来なかった。ワカイシュに入ると二五~三〇歳位まで務め、結婚し子供が出来ると脱退した。ワカイシュ仲間の祝言ともなると、皆で家に押しかけ、ウドンや酒を振る舞ってもらったという。また婿に来た者でも何年かはワカイシュに加入し、ムラの男として一人前と認められなければならなかった。
 

Ⅲ-8図 馬場天満宮の相撲

 ワカイシュといわれていた頃にはワカイシュガシラがまとめ役で、青年会になってからは会長、副会長が一名ずつ、他に各坪に二名ずつの役員がおかれた。会の規約はなかったが、一般に年下の者は先輩を立て、会合の際のお茶出しや後片付け、戸閉まりなど雑事一切は引き受けた。
 青年会の活動としては、月に一、二回光明院で会合が行なわれ、五目飯など作って共同飲食した。会の運営資金としては、会費を集めてこれに当てたが、他にも費用作りのため、各戸の田植えが終った頃を見計らって会員が総出で用水路の脇に稲を植えた。そしてここからは一〇俵ほどの収穫があり、会ではこれを売って、鬼怒川温泉や成田山などに旅行する資金にした。また夏の盆踊りを主催したのも青年会であった。小保川の盆踊りというと近隣の村々から沢山の人々が見物に集まってくる盛大なもので、やぐらの準備から演芸に至るまで、青年会会長の指揮の下で進められた。
 次に蔵持のワカイシュをみると、加入年齢は一六歳で、結婚し子供が出来ると脱退した。ワカイシュの活動としては、大杉様の箱の受取り渡し(大杉祭りの後一日おいた十一月二十九日に行屋で行なわれる掛軸・祭り幟の引き渡し)やサナブリオコトなど農休みを区長に持ちかけること。さらに旧暦七月九日の観音様の祭りには、灯籠に自分たちで絵を描き、ムラの辻々に立てた。また仲間の祝言ともなると行屋に集まり、振る舞い酒を飲んだ。
 蔵持新田のワカイシュは、戸数も少ないことからか一八歳で加入した後は移転などの特別な事情を除いて、死ぬまで脱退することはなかった。活動としてはムラの共有地を耕作し、芋、野菜など栽培し資金を得ていた。
 
消防団
 これも青壮年の男性を持って組織された。小保川では、明治二十九年に旧玉村全体として組織されたのが始まりである。原則的な加入年齢は定められておらず、一六、七歳となりワカイシュにも加入し、一人前の働きが出来るようになると仲間入りし、脱退となると五〇歳を過ぎ、自分の息子と入れ替わる場合が多かった。
 旧玉村には小保川、原宿、若宮戸、原の四つの支部があり、小保川では三〇人前後の団員がいた。消防団の役職としては組頭一名、小頭三名(各坪一名ずつ)、班長六名(各坪二名ずつ)がおかれ、実際に火事が起きた場合の役割分担も決められていた。例えば火の見やぐらの鐘を打ち鳴らし火事の発生を伝える「信号係」は火の見の近くに住む者一名、ホースの口先を持って消火にあたるのは体格の良い者を二名、ポンプを扱う者は交代で務めるように一五名と決められていて、残りの者は「水係」として井戸や堀から、ポンプに水を汲み入れる役であった。その他、夜であれば提灯で手元を照らす役や、延焼の可能性があれば、鳶口で建物を壊す役が必要であった。
 消防団としての活動は火事が起こらない限り、正月の出初め式に旧玉村の四つの支部が集まり、小学校前の用水堀を使って放水し、ポンプの調整をする程度で、日頃の会合・訓練といったものは行なわれなかった。
 
庚申講
 オカノエサマ、カノエ講ともいわれる。蔵持では庚申の日(二か月に一度)行なう組と毎月申の日に行なう組の二つがあり、いずれも一〇戸程度の同信者による講である。原則として講に参加するのは各戸の主人で、まつりは持ち回りのヤド(宿)で行なわれた。ヤドの順番は一年の最後のまつりの際、来年度の割り当てがくじで決められた。
 

Ⅲ-9図 庚申の石塔(馬場天満宮)

 まつりは、夕方ヤドとなった家の床の間に掛軸(青面金剛の図や猿田彦大明神の名が書かれたもの)が飾られ、講員が集まって来て各々に参拝し皆が揃うと掛軸を前にして共同飲食が行なわれた。当日の料理は本膳といわれ、生揚げ、きんぴらごぼう、けんちん汁、御飯で、正月だけは特別に酒が出された。
 こうしたまつりの費用は、各戸からの米の持ち寄りで賄われ、また本膳に使うツボ、ヒラなどの黒塗りの膳椀類も講の共有財産であった。そして当屋が交替すると、これら膳椀類と、掛軸が次の宿を務める家へと引き継がれていった。さらにまつりの日にはお賽銭として積み立てをした。
 
巳待講
 巳の日にまつりが行なわれることからミマツサマともいわれた。講の形態としては、蔵持新田・古間木新田の様に各戸の主人の参加により、庚申講と同様に行なわれてきた例もあれば、小保川のごとくワカイシュに入るとすぐに仲間入り出来るなど様々であった。
 そして、まつりは晩方からヤドに集まり、掛軸の前で共同飲食するといったもので庚申講と変らない。
 
石裂講
 ウザク講、オザクベッカ、ベッカともいわれた。崎房南坪では栃木県鹿沼市の古峰神社から迎えてきた掛軸を持ち回りのヤドで祀った。講員は毎月二十四日に四合の米を持ってヤドに集まり共同飲食をした。ワリメシが主食であった頃なので白米だけの御飯はたいそうな御馳走とされた。蔵持では、明治末には行なわれなくなったが、それ以前には古峰神社に代参に行った。毎年十二月頃に行屋で代参者二名をくじで決め、代参者となると翌年の十~十一月の適当な日に出掛け、五穀豊穣を祈願し村の全戸分の神札を受けて来た。旅行など簡単に出来る時代ではなかったので、代参に当った者は日光見物もしてきたという。
 
蚕影講
 小保川地区では、養蚕が盛んに行なわれた昭和初期頃まではあった。筑波山麓の蚕影神社に、養蚕の成功を祈願しに出かけた。
 
〔女性の集団〕
観音講
 まつりが毎月十七日に行なわれるところでは十七夜講、十九日の場合は十九夜講と呼ばれ、各ムラともツボ(坪)を単位で主婦たちによって組織される講であった。
 崎房南坪の観音講は、昭和初期まで毎月十七日の晩に持ち回りのヤド(宿)で行なわれた。まつりに参加するのは、三〇~五〇代の主婦たちで、子供がある程度手がかからなくなると加入し、自分の家の嫁が加入する頃になるとぬけて、念仏講に加わった。
 まつりの当日は夕方、宿の床の間に雨引観音(雨引山楽法寺―真言宗豊山派―真壁郡大和村)から勧請してきた掛軸が飾られる頃になると、近所の主婦たちが集まって来て線香をあげて拝み、それが済むとヤドで用意されたけんちん汁、天ぷらなどをおかずにして食事をした。また当日参りに来る者は、お賽銭としていくらかずつを掛軸の前にあげた。この賽銭は観音講として貯めておいて産見舞や産で亡くなった者の香典にあてた。
 蔵持の十七夜講ではまつりの当日となると、観音堂と阿弥陀堂の戸を開け、線香をあげて拝んだ。観音堂には重箱か丼に御飯を盛って供え、帰りには「ゴク(御供)をはさむ」といって、皆が少しずつ御飯をつまみ、おこうこと一緒に食べた。また赤ん坊のいる家では、ゴクを少し紙に包んで姑が持ち帰り嫁に食べさせた。
 また蔵持の十七夜講では雨引観音に代参をたてていた。代参者は正月のまつりの時にくじで二名決められたが、その時に妊婦のいる家があれば自動的に当りとなった。実際に代参に行くのは当った者の主人で、農閑期に出掛けて講員分のお札をうけて来た。
 

Ⅲ-10図 十七夜講(古間木裏宿)

 女性の講としては観音講の他に同じような形式で地蔵講、薬師講などのまつりを行なっているところもあった。
 
〔老人の集団〕
念仏講
 六〇歳以上の男女を中心に組織され、念仏衆ともいわれた。
 戦後は念仏衆が関与する行事はほとんどみられなくなり、講としての集まり自体も希薄化し、老人会となってしまったが、それ以前の念仏衆の行事としてはオデ(テン)念仏や、百万遍の辻がためをはじめ様々なものがあった。なかでも一番の行事がオデ(テン)念仏で、悪病除けと豊作祈願の念仏といわれた。小保川では二月十日過ぎにすし・あんころ餅・煮しめなどを持ち寄り行屋に集まった。二月十日の他に、三月十日と九月十日にも行なわれた地区もあった。
 そして疫病神が村に入って来ないようにと、二月と六月に村の境である辻で行なわれたのが百万遍の辻がためで、念仏衆は多数の木の数珠玉をつなげた数珠の輪を持ち、念仏を唱えながら数珠繰りをした。
 この他にもムラによって念仏衆による行事は様々で、例えば蔵持では、二月八日にオセキマワリといって、前年の二月八日以降に亡くなった人の供養を念仏衆が執り行なった。当日は念仏衆と故人の家族ムラシンセキが行屋に集まり、庭に竿を四本立てて四角に囲み、その外側にゴザを並べ、焼香台を一つ作った。用意が済むと念仏衆は鉦、太鼓を鳴らしながら、故人の名前を読み上げていくと、故人の家族やムラシンセキの者が順々にゴザの上を三回まわり、ひいらぎの葉を竿囲みの中に投げ入れていった。行事が済むと念仏衆には茶といくらかのお礼が出された。
 また将門の命日といわれる二月十四日にはキッカブ(切株ないしは斬り首)祭りとして念仏衆が中心となって慰霊祭を行なっていた。鬼怒川沿いにある供養碑に、ぬるでの木で作った刀、槍それに甘酒や赤飯を供え、その前に筵を敷いて座り念仏を唱えた。
 この他崎房南坪では、子授け地蔵や大日如来のまつりも行なっていた。また正月四日にクリゾメといって、百万遍の数珠繰りを行なっていたところもあった。
 念仏衆はこうした定期的な行事の他に、葬式への関与があった。葬式が出ると念仏衆に連絡が入り、念仏衆の方では野送りの際に使う花籠などを準備した。念仏衆が喪家に招かれると、まず庭で鉦・太鼓を鳴らしながら念仏を唱えて回り、野送りの際にも墓まで念仏を唱えてついていった。そして葬式が済むと念仏衆に対して喪家やその親戚たちからお礼が手渡された。