家族の地位と役割

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大正時代の家族は、親・子・孫と三世代ないし四世代が同居する直系家族が典型であった。そして各家では、道普請、溝さらいの村仕事や冠婚葬祭における近隣づきあいや互助など、ムラに属する一つのイエ(家)としての義務や義理を欠かさずに遂行しようとしてきた。
 そして今でこそ、こうした「家のしきたり」といった言葉は聞かれなくなり、個々の家族員の意志が日常生活において反映される世の中となったが、当時の家では個人はイエに付随する存在であった。
 家の中心となるのはオトウ、オトッツアンと呼ばれる家長で、食事の際には大黒柱を背にした上座にすわり、風呂が沸けば一番に入るなど、何事においても最優先された。また家長は家の代表であるから、ムラの会合や普請などの出役の義務はもちろん、祭礼や庚申講などへの参加、自家の農作業・金銭の出入・財産の管理などすべての実権を握っていた。したがって一家の主婦といえども、夫が死ぬまでは財布をみたことはなかったという者もいれば、まして嫁にいたっては自由になるお金を持てる道理はなく、どうしても必要な時には、実家に小使いを貰いに行ったこともあったという。
 家長がこうした家のオモテ(表)の代表者であるのに対し、オッカ、オッカサンといわれる主婦は家のウラ(裏)の代表者である。炊事、洗濯、親や子供の世話・農作業の手伝いなど、家の中における裏方の仕事一切を引き受けるのは主婦の役割である。一家の主婦としての地位を公に認められるようになるのは、姑に替わって観音講に加入する頃からで、早い人でも四〇歳を過ぎている。つまり観音講に加入するまでは、あくまでも嫁なのである。
 当時の嫁はいかなる時にも下位に扱われた。たとえば、食事の際には台所に近い末座についたし、入浴にしても最後で風呂を洗って出なければならなかった。また嫁の一日の生活をみても、家族の誰よりも早く起きて水汲みをし、昼間は野良仕事、子供の世話、洗濯、晩飯が済めば夜なべ仕事で縄ないや繕物があり、ゆっくりと休む暇もなかった。
 次に、老人と子供の家における地位・役割をみると、老人といえども働ける内は田畑に出るし、孫が出来れば子守りもする。老人は家の代表者としての地位を退いたとはいえ、家の重鎮であり続けた。一方、子供については地位、役割とも大人に比べて明確ではないが、兄弟が多い場合には上の者が弟や妹たちの面倒をみたり、小学校の高学年ともなれば水汲みや野良仕事の手伝い、またランプを使っていた当時は、ランプの煤を掃除するのが年長の子供たちの仕事だった。
 この他、家によっては奉公人を置いた家もある。農家の場合には奉公人を置けるのはシンショウ持ちの家で、男女一人ずついればたいしたものだった。奉公人は一般に三年の年季であがり、家族の一員として生活をともにした。奉公人は三~四畳半ほどの生活部屋で寝起きし、食事は家族と一緒だが一段下のイタノマに座っていた。奉公人の仕事としては、女の場合は一三、四歳から来るので、最初は子守りなどをさせながら台所のことやお針仕事などをしつけ、男の場合はある程度一人前になってから来るので野良仕事の手伝いをさせた。
 そして奉公人には、シキセ・コヅカイといって盆・暮・ヤブ入りとなると、着物と小遣いをもたせて親元に帰した。