昭和時代になっても日本の経済は、大正末以来の不況が尾を引いて好況に転ずることがなかった。昭和二年(一九二七)には、大正十二年の関東大震災の際の震災手形の処理に端を発し、全国的な金融恐慌が起こり政府はモラトリアム(支払猶予令)を発して、どうにかこれを切り抜けたが、続いて昭和四年(一九二九)十月にアメリカの株式市場で大暴落が起こり、この影響が世界各国に波及した。
日本では浜口内閣が同五年不況打開策として、金輸出の解禁を断行したが、これは反って世界恐慌と相まって深刻な昭和恐慌を引きおこしていった。農村では朝鮮産米などの圧力をうけていた米作や、生糸輸出の激減に影響された繭などをはじめ、各種の農産物の価格が暴落し、一方都市では失業者があふれ、彼らがやむなく帰農したため農家の困窮はいちじるしく、とりわけ東北地方の農村では欠食児童や女子の身売りなどの現象が出現した。このような状況の中で労働争議・小作争議などが発生し、政治的不信感も増幅されていった。
経済界の不況は当然県下各町村の財政を圧迫した。各町村はその財政規模を縮小せざるをえなくなった。当時の石下町の財政状況を示す資料が残っていないのでその内容は不明であるが、当時の各町村の一般的傾向をみてみよう。昭和五年三月二十三日付の「いはらき」新聞では、同六年度の茨城県下の町村予算は一割二分の緊縮予算になると、次のように報じている。
町村来年度予算は一割二分の緊縮
県下の町村来年度予算は県地方課で集計中のところ、この程纏まった総額は九百五十四万一千八百二円で、
水戸市を合すると一千十一万八千九百五十六円となり、これを前年度の一千百四十八万六千三百円に比す
ると、百卅六万七千七百四十四円の減額となり一割一分九厘の緊縮節約を見た訳である、市部を除いた町
村予算だけで見ても百二十二万二千百四十円の減額で、一割一分三厘を緊縮している……
昭和五年度結城郡下の町村予算をみても、前年度より四万四八三一円減額の六八万八七九六円であり、減額率は〇・〇六パーセントと、県下各郡に比して最も少ない率であった。そしてこの傾向は翌昭和六年度も同様であった。「不景気論で終始した昨日の町村長会」と題する新聞記事は(昭和六年一月二十九日付「いはらき」)、結城郡の町村予算減額の申合せについて、次のように報じている。
結城郡町村長会では二十八日午前十一時より石下小学校に於て総会を開会、各町村長出席の上渡辺会長議
長席に着き、
昭和六年度歳入出予算案、同年度会費分賦収入方法、同年事業予定、昭和四年度歳入出決算、同年度事
業報告等の案件を一瀉千里に決議した後、当日の眼目たる六年度予算編成に関する打合せに移ったが、財
界不況の折柄とて各種の議論百出し、結局六年度予算額は前年度頭初予算に比し、約一割を天引すること、
役場吏員の減俸も適当に考慮の上断行すること、教員住宅料及び賞与額は全廃すること、教育費中の一般
需要費は一割及至二割を減額すること等の申合せをとげ、さらに滞納対策納税奨励方法等について協議を
進め、徹頭徹尾不景気論で議場を賑し、午後二時閉会……
不況の続く中で各町村は町村費の削減をやらざるを得なくなったが、石下町でも例外ではなく、ついに町費約二割の減額に追いこまれた。昭和六年二月十四日付の「いはらき」新聞では「石下町予算 約二割の減額」と題して、
石下町では目下鈴木町長、長瀬書記らの手で六年度予算案の編成中であるが、時節柄専ら緊縮方針に則り、
前年度頭初予算に比し、約二割方の減額をはかる筈で、各種補助費の如きは何れも半減する模様であると
昭和六年九月満州事変が起り経済は戦時体制へ向っていったが、不況は依然として脱出できなかった。そしてそれは同七年になっても同様であった。石下町の七年度の予算は三万二〇〇〇余円と若干の増額にはなったものの、それは小学校敷地拡張と、本石下地内町道新設費が含まれたからであるが、「新築事業は若し財界がこれ以上不振に陥った場合には、繰りのべする事の条件が付され」(昭和七年三月二十一日付「いはらき」新聞)とのことであった。
このような昭和恐慌の嵐の中で深刻な打撃を受けたのが農村であった。政府・県ではこの農村の建直しをはかるため、農会技術員の配置や農家組合の普及、産業組合の拡充などを強力に推進するとともに、それらを包含した農山漁村の復興を計画して、昭和七年(一九三二)から農山漁村経済更生運動を実施した。各町村ではこれを受けて経済更生委員会を設置し、基本調査や経済更生計画書の作成などを実行していった。
石下町では県から自力更生模範町村としての指定を受けたのを契機に、昭和八年二月実行委員会を設けて、実行項目を決定することとなった(二月九日付「いはらき」新聞)。委員の名前をあげると次のとおりである。
山中直次郎 野村清作 黒川喜平 広瀬嘉兵衛 斎藤栄一郎 菅谷定吉 野村喜一郎 山中徳三郎
長瀬長一 笠倉米次 中川彦一 橋本善一郎 鈴木慎三 山中徳一 新井正材 斎藤治一郎
倉金善一郎 堀越弥四郎 生井重兵衛 栗原彦一郎 岡本善吉 木村長次郎 中川精吉 笠原長一郎
中山広吉 中島鬼太郎
経済更生運動は地域により差異はあるが、徐々にその効果をあげていった。昭和八年二月には「何れの集団指導地も県の趣旨を汲んで真剣に協議し、それぞれ特色ある施設を講ずることになった」として(二月五日付「いはらき」新聞)、石下町に関して次のように報ぜられている。
石下町の集団指導地では、従来新石下農家組合と称して、組合員五十二名が十四町九反歩の耕作を行って
いたが、同地方における一反歩の米収穫高が三俵半が、組合内の耕地では平均六俵を収穫しているので、
八年度から十三名の組合員が新たに加入し、耕地が四十二町歩に拡張することになったので、組合ではこ
の四十二町歩を四区に分けて、品種を無芒愛国、愛国二号、早生関取、太郎兵衛糯の四種に統一し、播種、
施肥も共同で、害虫駆除は電気誘蛾灯を用いることになり、其他に生活改善と自家用醬油の醸造、冠婚葬
祭改善を実行することになった……
さらに同年三月二十三日付の「いはらき」新聞では、「自力更生指定の石下町施設」と題して、町の更生委員会の活動を次のように報じている。
昨年度において自力経済更生町村に指定された石下町では、会長に鈴木慎三、副会長橋本善一郎、中川彦
一、委員に山中直次郎氏外二十三名を挙げ、種々実行方法を協議した結果、農家組合養蚕実行組合、農産
物受検組合、採種組合等を扶助機関として、左記諸事項の実行を期し経済更生の力強い実績をあぐること
に決定した。
△土地利用の合理化 △労力利用の合理化 △農家経営組織の改善 △生産費その他の経営費の節減
△生産方法の改良及び生産の統制 △農家経済の改善 △社交の儀礼における弊風の打破
このような計画のもとに農村振興対策がはかられていったが、しかし昭和六年に始まった満州事変を契機に、やがて日中戦争へと戦時体制に向うのである。