太平洋戦争と町民生活

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日中戦争が長びいて国民生活が窮乏を深める中、昭和十六年十二月八日太平洋戦争が勃発し、国民はいよいよ戦時体制下の生活を強いられることとなった。若者は兵隊として戦陣に送られ、自営業者は徴用工員として軍需産業に投入され、婦女子も動員その他で戦争遂行のために駆り出された。「欲しがりません勝つまでは」の合言葉で、国民は苦しい戦時体制下の生活を送った。
 

Ⅳ-2図 役場を前にした慰問袋(昭和18年頃,野口善次郎氏提供)

 開戦直後しばらくの間好調であった戦況も、間もなく敗退に向うのであったが、一般国民は何も知らずに政府・軍部の宣伝を信じて戦争に協力していった。石下地方の住民も統制経済下の苦しい生活をなんとか克服して、「お国のために」奉仕する努力を重ねた。戦時下の町民生活を示す史料が不明であるので、以下「茨城新聞」の記事により、町民生活の様相の一端をみることにしよう。
 開戦後間もない昭和十六年十二月十日には、石下町女子青年団では早速非常時訓練を開始し、「いざとなれば女性も第一線へ、の覚悟で銃を執り猛訓練を行っているが、決戦下日本女性の意気は正にこの通り」と、戦時下女性の心意気が賞賛されている。翌十七年十二月四日には石下町女子勤労奉仕隊も結成された。これに関しては次のように報道された(十二月七日付)。
 
  石下町では銃後物産の一翼を果すため、各町内会長と緊密な連絡をとり女子勤労奉仕隊の結成を急いでい
  たが、さすが決戦態勢下における興亜の乙女だけに、希望者は予定人員を遥かに超過、町内によってはお
  嬢さんが一人残らず揃って応募という赤心の披瀝に、当局をすっかり感動させた。四日午後一時より役場
  会議室に山中町長、松崎指導所長、各町内会長列席奉仕隊員と懇談会を開催、打合せを行った後稲荷神社
  で結成式を挙行……
 
 戦争が激しくなるにつれ、国民生活にとって困難をきわめたものの一つに食料増産・確保の問題があった。農具も肥料も不足したが、それにも増して窮乏したのが労働力であった。そこで各地で農家を支援する方策がとられたが、石下町でも昭和十八年六月には食糧増産部隊が組織され、各農家への勤労奉仕が行なわれた。その状況を紹介しよう(六月十五日付)。
 
  石下町増産部隊 三百二十名出動す
  結城郡石下町では町役場農会及び各町内会協力の下に、三百二十名の食糧増産部隊を組織し、各町内会長
  陣頭指揮の下に第一回勤労奉仕として、去る十日同町内各農家組合に出勤、炎天もものかは桑園の手入れ、
  麦刈等に終日敢闘の汗を流したが、同奉仕隊はこれから田植期を迎えて本格的活動の段階に入り、農家組
  合と連絡の下に一意増産街道を驀進する
 
 食糧増産は農家への支援ばかりでなく、常会単位の田畑の耕作なども実施された。同年六月十五日の記事によれば石下の町内会では、水田の裏作として三反歩の田に馬鈴薯を共同作付けし、「一同の熱心なる肥培管理により」充分な収穫をあげ、各家庭に代用食として分配することにした。また岡田地区の畑を借りて甘藷栽培を計画するなど、少ない配給の食糧を補うための努力を重ねたのである。この傾向は戦争が激烈化する同十九年になると一層推進された。そしてその方策の一つとしてとられたのが、農作業時の共同炊事、共同保育事業であった。県と県農業会では共炊現地研究会などを実施し、郡別に炊事・保育所の開設を割当てた。結城郡下の割当ては共同炊事所二一〇か所、共同保育所一〇〇か所で、秋の農繁一大攻勢として強力にすすめられた。
 

Ⅳ-3図 米の供出風景(昭和19年,篠崎正雄氏提供)

 町民の労力奉仕の一つに「松根油」の供出があった。戦況が悪化しガソリン不足に悩んだ軍部は、ガソリン代用油として松根油の確保を国民に訴えた。このため住民は松の根掘りに汗水を流したのである。昭和十九年末ごろの当地方の松根油供出に関する一例をみよう。
 
  松根油緊急増産
   結城郡三月までに割当達成へ
  結城郡では松根油増産の完璧を期すため、安静、大形、江川、石下、菅原の五ケ村農業会に製油所設備を
  急いでいるが、更に各町村農業会が緊密な連絡の下に、極力所有者の献納を促進させるため、この程関係
  者が地方事務所に参集諸般の打合せを行った。なお郡内で資源の最も豊富に埋蔵されているのは下結城地
  内で、ここに主力を注ぎ掘り取りを開始する筈で、以上献納に要する努力等は一切各町村で自給し、来春
  三月までに割当目標九万七千五百貫突破目指し、邁進することとなった。
 
 戦争が長びくにつれ戦況は悪化し、昭和十八年(一九四三)二月からのガダルカナル島撤退を機に日本軍の敗色は日に日に色濃くなっていった。翌十九年七月サイパン島が陥落すると、それ以後B29爆撃機による本土空襲が連日のように続けられた。政府は同十八年末から十九年にかけて東京地区の住民・学童を地方に疎開させる方針をすすめた。当然石下地方にもこの要請が行なわれ、昭和十九年になると疎開受入れ対策が講ぜられることとなった。三月一日には水海道で、二日に石下、六日に結城という日割りで、各町村長および疎開係りが参集してブロック会議が開かれ、「各町村の縁故関係者が手紙其他を以て、進んで都人に呼びかけ積極的疎開に協力するように」と希望され、不用の物置や土蔵等を住宅に改造して疎開者を受入れるよう要請された。そして疎開者は農業や工場へ送りこんで、戦力増強をはかることとされた(二月二十八日付「茨城新聞」)。
 この結果同年四月十日現在では、結城郡下に三八二世帯、一七〇八名の者が疎開してきた。しかしこのうち二二六世帯、一二四九名は農業や工場へ従事せず、食糧の買出しなどを行なっているので、これでは地域住民への影響極めて悪いと、疎開者を各学校・寺院に集めて、地区の翼賛会が指導に当ることになった(四月十四日付 同)。この会は石下では四月二十四日に実施されたようである。
 空襲が激しくなるにつれ、東京の学童たちの地方疎開がすすめられた。茨城県下への学童集団疎開は昭和十九年八月から行なわれた。本県へ割り当てられたのは東京都向島・淀橋両区の学童一万六〇〇名で、県下の各警察署ごとに人数が決められて受入れられた。一般的には山間または内陸部の宿泊施設のある町村に多く割り当てられ、旅館や寺院等が宿舎に当てられた。
 石下町にも学童疎開受入れの要請があり、向島第二吾嬬国民学校の児童が疎開してきた。この受入れの期日等詳細な史料がないので、その実態は不明である。しかし昭和二十年一月二十三日付の新聞記事からみて、当町に疎開学童がやってきたのは、本県が受入れを開始した十九年の八月頃であったと思われる。宿舎としては町内の石下館、釜仙支店、住吉屋の各旅館が当てられた。次に疎開学童らの様子を伝える報道記事を紹介しよう。
 
  見違える疎開児の成長
   石下校収容児体重毎月一キロ増加
  結城郡石下町に疎開して来た向島第二吾嬬国民学校、三年から六年までの男女児童二百八十名は、早くも
  六ケ月の集団生活を送って元気に新年を迎えた。このうち六年男二十八名、女四十名は近く進学のため帰
  京するが、何れも体重は一キロから二・四キロ位ずつ毎月ふえ、多い児童は八キロから増加という際立っ
  た健康増進ぶりで、その上規律も非常に正しくなり、見違えるようになった吾が子を迎えて、両親達はさ
  ぞかしびっくりすることであろう。父兄も集団疎開に対する認識が漸く深まり、六年と入れ代る新三年の
  疎開希望者非常に多く、出来得る限り収容するため対策を講じている。
 
 東京を離れて地方に疎開した学童たちも、昭和二十年春ごろからの相次ぐ空襲などにより、さらに安全な場所へ再疎開しなくてはならなくなった。石下地方への疎開学童もこの新聞記事で報道されてから間もなく、当町を離れていったのである。
 太平洋戦争が開始されて戦場が拡大され、しかも戦況が次第に不利となってくる中で、町民たちの日常生活は日に日に困窮の度を増していった。男子は兵隊や軍需工場に動員され、婦女子も女子挺身隊をはじめとして工場や農村に動員され、不自由な生活を余儀なくされた。ただ幸いにも当町域には軍需工場もなく、軍関係の施設もなかったから、水戸市や日立・土浦市のように、爆弾攻撃・焼夷弾攻撃や航空機による機銃掃射などの恐怖にさらされることもなかった。住民は東京をはじめ県内各地の被害を聞くにつれ、敗色濃い戦争に複雑な思いを抱くのであった。石下町域で直接米軍機に砲撃を受けたのは、昭和二十年二月十六日夕方グラマン戦闘機により石下駅付近に爆弾が三個投下され、死者一名の被害がでたことと、同年七月二十八日吉沼飛行場爆撃の後ロッキードP51戦闘機が、石下国民学校を銃撃したが幸いにも被害がなかったことの二件である(「石下町明治百年史年表」)。
 

Ⅳ-4図 出征兵士を送る風景(昭和17年,岡野幸夫氏提供)