農家経済の崩壊

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昭和四年(一九二九)十月二十四日は、「アメリカの死んだ日」として、歴史に刻印される一日であった。ニューヨークの株式市場の株価が急暴落をはじめた日である。恐慌の波は全世界を席捲した。
 日本においても、世界恐慌の影響をまともに受けねばならなかった。同年十一月二十一日に金輸出解禁が決定され、翌年一月十一日に実施された。これにより円の為替レートが高騰し、国際収支は悪化し、昭和六年に日本の恐慌は、最悪の事態を迎えるのである。
 金輸出解禁による緊縮財政により、最も悲惨な状態に陥ったのが農村である。
 日本の輸出品総額の四〇%を占めていた生糸は、ほとんどをアメリカへ輸出されていたが、円高と恐慌下アメリカの需要減により、国内の生糸相場の暴落を招いた。これが繭価の下落をもたらし、養蚕農家にとって大打撃となった。Ⅳ-5図は、県内の生糸および繭の生産高と価額の推移を指数でみたものである。県段階においても、生糸と繭の価格は連動しているのがよくわかる。しかし、生産量の増加にもかかわらず価格は低迷しているので、養蚕農家の打撃は図で想像するよりも大きかったはずである。生糸も繭も昭和十四年になるまで、慢性的な低価格を維持するが、とくに繭の価額は昭和八年を除き、常に生糸の価額を下回っており、とくに昭和九年には元年の四三%にまで落ちこんでいるのである。
 

Ⅳ-5図 生糸,繭の産額と価額の推移
昭和1=100とした指数である.生糸の産額は製糸産量の合計,
価額は蚕糸価格の合計であり,繭は繭総産額の産量と価額である.
『茨城県史料 近代統計編』354~355,275ページによる.

 しかし、価格の下落は繭に止まらず、昭和五年夏に野菜が暴落し、秋には米の豊作のため、米価は大幅に下落し(水戸市における上玄米一石の価格は、昭和五年一月に二八円五〇銭、十二月に一五円六〇銭)、有名な「豊作飢饉」を現出し、翌年の不作は(茨城県で一八%の収量減)、「凶作飢饉」をもたらした。ここに、戦前日本農業を代表する二大作物の米と繭が大きな打撃を蒙ったことになる。
 この期における町域の町村についてみておこう(Ⅳ-1表)。
 
Ⅳ-1表 農家戸数の推移
昭和3年5年6年7年8年11年13年15年




総 戸 数780912912912914914920925
専業農家325325325325314313280233
専業農家率67.767.767.767.765.164.958.153.8
兼業農家155155155155168169202200
農 家 計480480480480482482482433
農 家 率61.552.652.652.652.752.752.346.8




総 戸 数395395395395395394391391
専業農家249249249249251253260267
専業農家率73.973.973.973.974.574.977.676.1
兼業農家8888888886857584
農 家 計337337337337337338335351
農 家 率85.385.385.385.385.385.885.789.8




総 戸 数365365365365375377377377
専業農家242239239248252252252252
専業農家率75.073.873.876.575.072.872.872.8
兼業農家8285857684949494
農 家 計324324324324336346346346
農 家 率88.888.888.888.889.691.891.891.8




総 戸 数455457457457459486496504
専業農家334336336326338345241242
専業農家率79.980.280.077.680.179.757.157.3
兼業農家848384848488181180
農 家 計418419420420422433422422
農 家 率91.991.791.991.991.989.086.183.7




総 戸 数667667667667735741740742
専業農家478478478478497508503502
専業農家率77.077.077.077.075.276.671.770.8
兼業農家143143143143164155204207
農 家 計621621621621661663707709
農 家 率93.193.193.193.189.989.595.595.6
各年『茨城県農業統計』による.


 
 総戸数についてみれば、旧石下町の大幅な増加が目立つ。しかしここでは大正期に似て、増加分は農家ではなく、昭和十五年の農家率は五〇%を割っている。また、川東の二村の総戸数の増加が停滞的であるのに対し、川西では増加傾向がみられる。
 さきにみた米と繭の価格の暴落は、この期の農民が、いやおうなく資本主義的な市場経済原理の上に立たされているのを明らかにするものであるが、彼らのもう一方の肩には、高率高額小作料が重々しくのしかかっていたのである。Ⅳ-2表は結城郡の小作地率と自小作別農家構成をみたものである。ここでは不断に小作地率の上昇がみられ、しかも、自作農家の減少と小作農家の増加が一貫してみられる点で特徴があるといえる。
 
Ⅳ-2表 結城郡の小作地率および自小作別農家構成
小作地率自小作別農家構成
自作小作自小作
 
昭和元年
% 
51.5
% 
54.5
% 
20.5
% 
34.0
% 
45.5
   3年47.742.720.533.546.0
   5年59.057.420.433.645.9
   6年59.157.320.333.546.2
   7年59.057.120.233.546.3
   8年59.157.020.233.546.3
  11年58.156.319.638.841.6
  13年56.858.517.440.242.4
  15年60.759.116.941.741.4
前表と同一資料による.


 
 農業恐慌の激化と重い小作料負担は、当然小作争議の後発県といわれた茨城県においても、昭和四年以降、争議件数の増加をみる。全国的にみても、争議は西日本から東日本へ、さらに北日本へと拡がるのであるが、県域でも県南の水田地帯ではじまった争議は、県北の山村、中央部の畑作地帯へと波及していくのである。現在のところ町域における争議の事例は、明らかにされてはいないが、郡内の初発の争議は昭和四年に一例あり、六年二件、七年九件、八年一一件と、恐慌の深化とともに、件数も増加している(桜井明「茨城県における小作争議の展開」)。そして、小作料の減免をめぐって地主・小作の交渉しているさなか、地主のピストル発砲をみた大生村(現水海道市)の小作争議は昭和六年にはじまっている(大生村の小作争議については、山崎淳『想い出の記』に詳しい)。
 このように、日本資本主義の拠って立つべき農村が崩解しかねないような危機の進行するなかで、行政が対応をみせるのは、昭和七年になってからである。「産業ノ振興ヲ図リテ民心ノ安定ヲ策シ進ンデ農山漁村ノ更生ニ努ムルハ刻下緊急ノ要務」(茨城県訓令甲第三〇号、昭和七年十一月十四日)として、全国の町村に「農山漁村経済更生計画」を樹立させるのがこれである。当初の予定では、昭和七年から五年間に全国の町村数の半数にあたる五〇〇〇町村を指定して計画を樹てさせるはずであったが、昭和十一年までに六六〇〇町村が計画樹立の指定町村になったといわれる(茨城県田園都市協会『市町村の農村計画』)。
 茨城県においても昭和七年から更生計画樹立指定町村が選ばれているが、結城郡内の指定町村はつぎのようになる(農林省経済更生部『経済更生計画資料』第三七号)。
 
  昭和七年度 西豊田村 石下町
  昭和八年度 豊加美村 豊岡村
  昭和九年度 上山川村 五箇村
  昭和十年度 宗道村
  昭和十一年度 豊田村
  昭和十二年度 名崎村
 
 町域の旧町村では、旧石下町と豊田村が計画樹立指定町村に選ばれている。旧石下町については、昭和六年にはじまる「農事集団指導地」設置事業に指定され、これが農村経済更正のために有効適切であると認められたために、計画樹立町村に指定されたとみられる。
 他方豊田村については、昭和十年の農家一戸当り九〇〇円、支出一〇三五円、差引一三五円の不足を示し、「斯カル状態ヲ継続スルトキハ本村ノ将来ハ詢ニ暗胆タルモノアリ」(茨城県『昭和十一年度農山漁村経済更生指定実行町村計画書』二九八ページ)という悲惨な状態にあった。しかも「戦前における農民窮乏の集中的表現」とされる農家負債額は四五三円にも達し、農家経済は破産していたといってよい。
 以下旧二町村の経済更生計画についてみることにしよう。