戦後民主化の動きが各分野に拡大していったが、その動きがようやく治まる昭和二十二年五月、地方の政治社会に大きな変革をもたらす地方自治法が施行された。従来に比べて町村の自治権は大幅に拡充されたが、しかしそれは適正な財政規模の裏付けがなくてはならなかった。そのため県によっては地方自治法施行直後から町村合併推進をはかるところが出てきた。
茨城県の場合は明治二十二年(一八八九)の町村合併以来、ほとんど合併の動きがなく小規模な町村が多かったから、地方行政上の障害が出てきた。特に町村合併の必要が痛感されるようになったのは、昭和二十五年自治体警察制度が整備されたり、また戦後の教育制度の改革で新制中学校がスタートし、校舎新築など町村財政を圧迫する要因が増えたことなどであった。そこで県では同二十五年に町村の適正規模に関する調査を実施し、町村合併に関する啓蒙運動を展開した。昭和二十六年一月茨城県地方自治確立大会が行なわれ、地方公共団体の規模適正化の決議が行なわれた。このような動きを背景にして結城郡では、昭和二十七年地方事務所開設一〇周年を記念して、町村合併を強力に推進することを決め、新しい町村の組合せ案を作成した。新町村の基準は人口八〇〇〇人ないし一万人規模とするというものであった。
町村合併促進法が昭和二十八年九月に公布され、これをうけて茨城県町村合併促進審議会条例が定められた。そして各地方事務所を中心に町村合併計画案が作成されていった。地方事務所がまとめた合併案は当初結城郡を七町または五町とする案で、つぎのようであった(「いはらき新聞」昭和二十六年六月十三日付」)。
七町統合案
(A)結城、絹川、江川、上山川、山川 人口三万九九二九
(B)中結城、名崎、下結城 人口一万四八四九
(C)西豊田、安静、大形 人口一万五一九九
(D)総上、豊加美 蚕飼、宗道、大形地内、鎌庭 人口一万二一四九
(E)玉、豊田、石下、岡田、飯沼 人口二万二八〇二
(F)菅原、大花羽、豊岡 人口一万五七八
(G)三妻、五箇、大宝、水海道、真瀬の内、川西 人口二万二一七四
五町案
第一部会 結城、絹川、江川、上山川、山川 人口三万九九二九
第二部会 中結城、名崎、下結城、西豊田、安静 人口二万七七八九
第三部会 総上、豊加美、蚕飼、宗道、大形 人口一万四四〇八
第四部会 玉、豊田、石下、岡田、飯沼 人口二万二八〇二
第五部会 三妻、五箇、大生、水海道、豊岡、大花羽 人口三万二三八二
結城郡下では合併への気運が最も早く高まったのは第二部会の西豊田班(昭和二十八年九月段階で班長ができた)であった。ただここでは真壁郡川西村を含めた西豊田・中結城の三村合併を理想とする動きも強かった。第三部会に所属した石下地方はどうであったのかみると、「石下、豊田は異論ないが、岡田、飯沼は大形を含めて別になりたいとの意見がある」と報ぜられている(「いはらき新聞」七月十九日付)。合併気運が最も薄かったのは水海道中心の第五部会で、「現在のところ全く気乗り薄で、動きはみられない」(同上)有様であった。
昭和二十八年九月十六日は郡内各町村長・各町村議会議長・地方事務所各課長をもって、結城郡町村合併研究会が設立され、郡下を五つの班に分けて町村合併計画書の作成と、合併後の利害得失を関係町村住民への普及宣伝に努めることとなった。班別編成が石下は第四班の班長となり、岡田、飯沼・豊田の三村が所属することになった。
県下の町村合併の気運は、昭和二十八年九月二十二日石岡・高浜両町の合併が決議されたことに刺激されて、各地に同様な動きがみられはじめた。当地方でも隣の水海道町が九月末から積極的に活動を開始した。水海道は従来商取引その他で同町と密接な関係にある各村、しかも警察署管轄が同一の地域に対して、合併の意向打診をはじめたのである。