石下を中心とする合併の動きは、同年十月以降次第に活発になった。結城郡町村合併研究会の試案では、玉村が宗道村を中心とする第三班に所属していたが、玉村の住民の意向としては石下地区への編入を望む声もあったから、当初石下中心の合併懇談会にも参加していた。したがって一町四村の合併も考えられていたのである。昭和二十八年十一月二十五日付の「いはらき新聞」では、
石下町を中心とする豊田・岡田・飯沼、玉の五か町村の合併問題は既に二回に亙り促進懇談会を開き漸く
軌道に乗ったので、近く第三回打合会を石下町公民館で開くことになった。この合併が実現すると石下(戸
数一二七六、人口七〇六九)豊田(同四七三、同三〇二四)岡田(同六六八、同三九八六)飯沼(同九〇四、同
五六九九)玉(同四九〇、同三〇二四)を合せ、戸数三千八百戸、人口二万二千八百となり、結城郡の中心
都市となる。
と報じられ、玉村を含めての合併が進められていた様子がわかる。
ところが同年十二月十五日になると結城郡中部の、宗道・豊加美・総上・大形・蚕飼・玉六か村の合併について、第一回懇談会が宗道村公民館で開かれた。この六か村は明治期に組合立の学校をもっていた実績があり、かつ現実に隔離病舎や火葬場を共同経営している関係にあったから、この六か村合併案は順調に進むものと思われだした。したがって同年十二月末になると石下地区の合併は、岡田村(人口三九九三)、石下町(同六九六八)、豊田村(同二九六六)、飯沼村(同五六九七)の一町三か村、人口一万九六二四人の町が成立するであろうと報じられるようになった。
昭和二十九年になると二月に結城郡町村合併計画協議会が結成された。協議会の意向として「地方事務所の合併試案は現情に適しない」との空気が強く、結城試案の再検討が確認されていった。すでにこの頃には結城を中心とする五か町村の合併案が決定をみていたから、残る各村は同年三月に合併ブロック別協議会を開催して、合併問題を協議するようになった。ブロック別協議会は次の三つであった。
○水海道、豊岡、菅原、大花羽、三妻、五箇、大生
○宗道、大形、総上、豊加美、蚕飼、玉
○石下、豊田、岡田、飯沼
このような動きをうけて石下地区の合併気運は急速に高まってきた。四月二十二日石下町公民館において石下町を中心とする岡田、豊田、飯沼三か村の合併促進協議会が結成された。協議会の会長に関井仁(石下)、副会長に秋葉源次郎(飯沼)・塚本嘉一郎(豊田)の三氏が就任し、新町村計画を作成・検討されることになった。
石下地区の合併問題でその去就につき動揺したのが玉村であった。玉村の住民は石下町に合併を希望する者と、宗道ブロックへの合併を希望する者とがあった。そしてこの問題は結局住民投票に持ち込まれたのである。昭和二十九年五月二十二日付「いはらき新聞」では、次のように報じている。
石下・宗道 僅か一票の差
玉村合併の住民投票
結城郡玉村では石下町に合併するか、宗道ブロックに合併するかの態度を決めるため、廿日午前九時から
住民投票を行い、投票の結果、石下六九七票、宗道六九六票と、僅か一票の差で態度を決定するのは不当
であると(中略)不満の声が強いため、同夜緊急村会協議会を開き協議したがまとまらず、二十二日村議会
と合併審議会の合同懇談会を開き、態度を決めることになった。
玉村がこのように合併問題で揺れている間に、宗道ブロックの宗道・蚕飼・大形の三か村は、五月三十日一斉に合併決議を行なって、昭和三十年一月一日を目途に新しい村として出発することを決定してしまった。結局玉村は分村合併ということになって、玉村のうち原宿・若宮戸・小保川三地区が石下町への合併を希望し、同年七月からは石下ブロックとして行動するようになった。
石下地区の合併促進協議会は同年七月二日開催され、これには石下・岡田・飯沼・豊田・玉村の一部が参加して、合併期日を昭和二十九年十月一日とすることは決定した。そして各町村議会での合併決議は七月二十六日一斉に行なわれた。なおこの時飯沼村の一部に沓掛町に合併したいとの声も出たが、それは少数派であって議会での議決時点では、その動きは消滅してしまった。