むかしこの地は、いしげ(伊師毛)と呼ばれていたが、石毛に改められ、さらに寛永六年の伊奈検地の時に
石下に改められて、明治二十二年の町村制施行も石下村、石下町といわれている。また特産石下紬の名は
元禄年間より京阪地方まで知られていた。歴史と伝統の石下を新町名としたものである。
つまり石下紬で知られた石下をもって新町名としたのであるが、それは合併が石下町を中心にできあがったことも意味している。そして一町四か村の合併を必要とした事情については、次のように説明されている(前掲書)。
関係町村は米麦、園芸、そ菜、繭等の生産物が豊富であり、むかしは鬼怒川の水路により、現在は常総筑
波鉄道またはトラックによる物資の集散が、石下町を中心に行われている。特に石下町、玉村の特産物で
ある織物工業は、近年隆盛に向いつつある。
以上のように関係町村は産業、交通はもとより、人情、風俗、習慣の共通性を有し、密接不可分の関係に
あるため、合併して行政の合理化により、住民の福祉増進を図ろうとしたものである。
なお玉村は地形が南北に長く、南は石下町に、北は宗道村に接しており、住民の利害、交際等も南北にお
いて異にしている関係上、町村合併について具体的な話し合いが進むにつれて、村民の意向が南部を希望
するものと、北部を希望するものとに二分されていることが判然としたため、分村して石下町及び宗道村
に、それぞれ編入したものである。
なお新町村建設の基本方針の中で、とくに「逐次道路網を整備し、生産物資の集散を容易にし、将来農工芸指導所を誘致し、諸産業の育成強化を図る」と、交通網の整備と産業育成が強調された。合併時点での現況を示すとⅤ-3表のとおりである(『茨城県市町村合併史』より)。
Ⅴ-3表 合併時点の町の状況 |
区 別 | 区 別 | |||||
人 口 | 現 在 | 人 21 562 | 市町村税 | 納税額 | 千円 25 539 | |
官報公示 | 人 21 561 | 一人当 | 円 1 184 | |||
方 粁 人 口 | 人 497 | 前年度予算総額 | 千円 37 903 | |||
戸 数 | 現 在 | 戸 3 588 | 銀行支店 | 2 | ||
国勢調査 | 戸 3 574 | 診療所 | 14 | |||
連たん状況 | 戸 数 | 戸 1 843 | 映画館 | 1 | ||
全戸数に対する割合 | % 45.8 | 生産額 | 総 額 | 千円 901 278 | ||
区 域 | 面 積 | 平方粁 44.81 | 一戸当 | 円 251 192 | ||
東 西 | 粁 9.0 | 生産額内訳 | 農 産 | 千円 416 741 | ||
南 北 | 粁 6.0 | その他 | 千円 437 | |||
業態生業 の割合 | 都市的業態 | 商工業 | 人 4 012 | 鉄道軌道駅数 | 1 | |
その他 | 人 1 621 | 鉄道乗客数 (一日当り) | 乗 客 | 人 451 | ||
計 | 人 5 633 | 降 客 | 人 448 | |||
その他の業態 | 農 業 | 人 14 580 | 平均郵便 (一日当り) | 発 信 | 通 1 839 | |
その他 | 人 1 349 | 受 信 | 通 2 276 | |||
計 | 人 15 929 | 平均電信 (一日当り) | 発 信 | 通 64 | ||
官 公 署 | 11 | 受 信 | 通 75 | |||
中 学 校 | 5 | 平均電話加入数 | 166 | |||
公 会 堂 | 1 | 郵便局 | 2 | |||
国 税 | 納税額 | 千円 16 505 | ラジオ聴取戸数 | 2 305 | ||
一人当 | 円 765 | |||||
府県税 | 納税額 | 千円 7 991 | ||||
一人当 | 円 371 |
新しく誕生した石下町について、昭和二十九年十月一日付の「いはらき新聞」では次のように報じている。
石下町きょう発足
結城郡石下町は飯沼、岡田、豊田、玉の一部(原宿、小保川、若宮戸)を編入合併し、人口二一、五六二、
戸数三、五八八、面積四三・三九平方キロの新しい石下町として今日一日発足する。此日同町では午前十
時公民館に関井町長、溝口助役ほか八五名の町会議員が集り、歴史的な合併宣言を行ったのち、二十九年
度後半予算四四〇〇万円、新町五カ年計画その他を議決するが、合併記念式と祝賀行事は十一月中旬盛大
に行われる。石下町は結城郡の中央に位し、同地方から生産される米麦、そ菜、果実、マユなどの農産物
を始め、あらゆる物資の集散地で、人情、風俗習慣も共通していたため合併案はスラスラと進み、猿島郡
沓掛町に合併を希望した飯沼村の西部地区と、玉村の半分だけが反対の気構えをみせたものの、結局飯沼
は全村一致、玉村は南部地区が石下に合併と決ったものである(後略)。
新しい町として誕生した石下町では、昭和二十九年十一月十五・十六日に祝賀行事を催すこととなり、県知事をはじめ県選出の衆・参両国会議員・県会議員並びに関係者等五〇〇余名の出席のもとに盛大に行なわれた。自治功労者等の表彰のほか、小中学生の旗行列、演芸大会、仮装行列コンクール、花火大会などが次々にくりひろげられた。
Ⅴ-4図 合併を祝う町域(倉金善一氏提供)
新町制施行後の昭和三十一年七月には最初の町長選挙が行なわれ、石下町商工会長の草房鼎・旧岡田村長の増田寿太郎両氏が立候補した。選挙の結果は六四二一票を獲得した草房候補が、三六七〇票の増田候補を破って町長に当選した。そして新しい町長を選んだ石下町は、合併後最初の町文化祭を十一月十四日から三日間開催したのである。
石下町の合併をはじめ結城郡下の町村合併は昭和三十年三月までに全てが終了した。従来の三町二四村は二市一町二村となり、郡町村合併研究会は、昭和三十年三月三十日石下町公民館で、合併完了祝賀式を挙行したのである。