就業構造の変化

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昭和三十年代後半からはじまった日本経済の高度成長は、戦争によって壊滅的打撃をうけた経済の危機を克服したばかりでなく、巨大な生産力を構築し、日本を経済大国にまで押しあげることに成功した。この成長をもたらしたのは、重化学工業部門にはじまる設備投資と農業から工業への急激な労働力の移動であった。とくに後者についていえば、昭和三十年(一九五五)から四十五年までのわずか一五年間に、農業を中心とする第一次産業の就業人口は、構成比において、三七・六%から一七・四%にまで低下していることをみても、明らかである。しかも重化学工業を中心とした工業部門においては、若年、新卒の労働力が大量に調達され、農業部門の労働力の高齢化が進行したのである。
 このような日本経済の高度成長期における農業から工業への急激な労働力の移動は、町域の就業構造にも大きな影響を与えずにはおかなかった。Ⅴ-4表は、昭和二十五年から三〇年間の産業別就業者数をみたものである。農業を中心とする第一次産業の就業者減が指摘されるのであるが、とくに昭和三十五年~四十年、四十五年~五十年において顕著にみられる。これに対し、第二次産業および第三次産業の構成比は着実に増加している。とくに第二次産業においては、昭和四十年以降に急激な就業者の上昇がみられる。
 
Ⅴ-4表 石下町の産業別就業者数(15歳以上)
昭和 
 25年
昭和 
 30年
昭和 
 35年
昭和 
 40年
昭和 
 45年
昭和 
 50年
昭和 
 55年
第1次産業8 080
(75.9)
7 537
(68.7)
6 698
(66.0)
5 520
(56.9)
5 018
(49.3)
3 709
(38.4)
2 904
(27.9)
3 875
(69.4)
3 627
(63.2)
3 163
(60.7)
2 764
(52.7)
2 486
(44.4)
2 050
(35.3)
1 618
(26.0)
4 205
(83.1)
3 910
(74.6)
3 535
(71.5)
2 756
(61.8)
2 532
(55.3)
1 659
(35.3)
1 286
(33.1)
第2次産業946
( 8.9)
1 500
(13.6)
1 323
(13.0)
1 882
(19.4)
2 426
(23.8)
3 003
(31.0)
3 880
(37.2)
661
(11.8)
595
(11.4)
780
(15.0)
1 099
(21.0)
1 431
(25.6)
1 929
(33.2)
2 389
(38.4)
285
( 5.6)
595
(11.4)
543
(11.0)
783
(17.5)
995
(21.7)
1 074
(27.6)
1 491
(35.5)
第3次産業1 607
(15.1)
1 940
(17.7)
2 130
(21.0)
2 300
(23.7)
2 734
(26.9)
2 956
(30.6)
3 632
(34.8)
1 043
(18.7)
1 204
(21.0)
1 266
(24.3)
1 379
(26.3)
1 680
(30.0)
1 818
(31.3)
2 210
(35.5)
564
(11.2)
736
(14.0)
864
(17.5)
921
(20.6)
1 054
(23.0)
1 138
(29.3)
1 422
(33.8)
各年とも国勢調査の数字である.( )内は構成比を示す.


 
 この事情は、昭和三十六年に町当局が「工場誘致条例」(条例第二〇号)を制定したことにもよる。条例は、新設あるいは増設される従業員五〇人以上の工場に対して便益を供与するほか奨励金を交付するとしている。六十一年までに町域に進出した事業所は三九社におよぶが、うち五〇人以上の従業員規模を擁するのは、一六社である。これらのうち昭和五十年以前に進出したものは二七社あるが、このうち従業員数五〇人以上の工場は六社(一〇〇人以上は二社にすぎない。むしろ町域に進出した企業は昭和五十六年以降に多く、この時期に一三社が集中)、うち三社が一〇〇人以上の従業員を有する。昭和五十五年において、第二次産業が三七・二%と構成比の最大部分を占めるようになるのはこのような工場進出と相まって、それらの下請けとして、町域に零細な下請け工場を出現させ、小規模ながらも従業員を雇用したことの反映とみてよい。進出企業の従業員数は二三〇〇人になる。首都より五〇キロメートル圏にある町域の立地条件が有利に働いたためである。
 第二次産業の就業者は、製造業と建設業がほぼ四対一の比率で推移している。しかし昭和二十五年から五十五年までの三〇年間に従業員数は製造業で約四倍、建設業で約五倍も増加している。
 製造業についてみれば、昭和四十二年、急激な工場進出がはじまる直前において、製造品出荷額が最も多かったのは繊維工業であった。全出荷額(一六億六〇〇〇万円)の六〇・五%を占めており、明治末からつづいた町域の最有力な産業の地位を、依然として保っていた。ついで出荷額の多い(二〇・三%)食料品工業についても、酒造業、油脂工業(油絞り)、菓子製造業など、地域の農業生産物の加工を中心とした土産的産業である。以後繊維工業の地位の急激な低下が起こり、昭和五十六年にはほぼ横ばい状態を保っていた、食料品工業を下回るまでになっている(Ⅴ-5図)。
 

Ⅴ-5図 繊維工業,食料工業における製造品出荷額構成比の推移

 このような地位の低下をもたらした大きな要因としては、製造品出荷額における給与額の割合の高さを指摘することは、無意味ではないであろう。昭和四十五年の製造品出荷額に対する給与額は、食料品工業においては、一四・二%、昭和五十一年に一五%、五十六年に一四・三%にすぎないのに対し、繊維工業では四十五年二三・六%、五十一年二五・五%、五十六年二七・九%、さらに六十年には三二・一%となる。労賃部分がこのように高い比率を占めるのは、手作業による工程が多く、技術革新を阻んでいたと考えられる。
 繊維工業に代って頭角を現わしてくるのが金属、機械、電気、輸送機器などの業種である。これら四業種の製造出荷額は、昭和五十六年に二四%を越え、五十九年には二八・七%にもなっている。
 土産的色彩の濃い産業に代って急激に業績を伸長させている右の業種は、いずれも町域に進出してきた企業であり、これらによって町内の産業構造も大きく変わろうとしている。