しかも調査報告をよくみると、昭和四十年から四十五年までの間に母屋を新築した農家のある集落は四八にもなる。新築した農家は二九九戸あるから一集落で六・二戸にものぼる。昭和四十五年に町域の農家は二二六二戸であるから、七・六戸に一戸が家を新築したことになる。地主的土地所有のもとでは、想像すらできなかった事態である。しかしこれを農業の好況によるとみるのは早計である。
昭和二十五年には、玉地区を除く町域の専業農家率は七九・一%にもなる。微弱ながらも商工業の存在した旧石下地区では七〇%にとどまるものの、豊田地区では八四%、飯沼地区で八三・五%にも達していた。しかしⅤ-6図にみるように、昭和三十五年以降、専業農家は急激に減少するのであり、減少率も、昭和三十五年~四十年に三八・三%、四十年~四十五年に四一・五%、四十五年~五十年に五〇・二%という激しさである。したがって、さきの家屋を新築した農家についても、農業収入よりは、農外収入によるものとみたほうが合理的である。
Ⅴ-6図 専業,兼業農家構成比の推移
専業農家の減少を地区別にみれば若干の差がみられる。昭和五十年に川東の地区で専業農家率が一〇%以下にまで減少している反面(豊田地区では三・三%)、川西の二地区では岡田地区で一五・二%、飯沼地区で二一・四%とかなり高い数字を示している。しかも昭和六十一年にもそれぞれ一〇%台を示していて、川東の三地区を大きく引き離している。これは、川西の両地区が、首都圏の生鮮食料供給基地としての役割を担っているためと考えられる。
専業農家が減少するのに反して兼業農家は増加する。町域では昭和五十年には、自家農業を従とする第二種兼業農家が、自家農業を主とする第一種兼業農家を構成比の上で、しのぐようになる。
兼業の業種としては、昭和四十年に「出かせぎ」として、第一種兼業農家で一九・五%、第二種兼業農家で一九・二%が計上されている。しかし年を経るとともに減少し、昭和五十年には一戸を数えるまでに減少している。首都から五〇キロメートル圏にある町域には、飯場の労働に赴く必要はなかったためとみられる。これに代って「人夫・日雇・臨時雇」が高率を占める。昭和四十年の第一種兼業農家では、これが二八%であったが四十五年には、第二種兼業農家ともども三〇%を占めている。これに恒常的賃労働者を加えれば、兼業農家の四〇%以上が、不安定な兼業労働に従事していたことになる。とくに第一種兼業農家においては、日雇、臨時雇の比率は高く、四十五年に四九%、五十年には四九%にもなっている。
専業農家の減少は農業生産にも影響を及ぼしている。昭和三十五年から六十年まで、町域の農業生産額の推移をみたのがⅤ-5表である。表では米の生産額の圧倒的優位を読みとれることができる。これは稲作技術の向上にともない、兼業農家でさえも栽培可能な作目になったためである。この期間に最も大きな伸びを示したのが野菜である。昭和三十五年を基準にした生産額の伸びは、昭和六十年において、米の六・五倍をはるかにしのぐ一〇・九倍を示す。
Ⅴ-5表 農業粗生産額の推移 |
昭和35年 | 昭和40年 | 昭和45年 | 昭和50年 | 昭和55年 | 昭年60年 | |
米 | 398 (37.3) | 788 (42.4) | 970 (34.0) | 2 011 (36.4) | 2 250 (35.2) | 2 599 (41.0) |
野 菜 | 177 (16.6) | 359 (19.3) | 755 (26.4) | 1 348 (24.4) | 1 850 (29.0) | 1 930 (30.5) |
耕種作物計 | 801 (75.1) | 1 360 (73.1) | 1 879 (65.8) | 3 567 (64.6) | 4 350 (68.1) | 4 730 (74.7) |
養 蚕 | 88 ( 8.2) | 82 ( 4.4) | 99 ( 3.5) | 98 ( 1.8) | 90 ( 1.4) | 44 ( 0.7) |
畜 産 | 178 (16.7) | 418 (22.5) | 878 (30.7) | 1 859 (33.7) | 1 950 (30.5) | 1 559 (24.6) |
農業粗生産額 | 1 067 (100.0) | 1 860 (100.0) | 2 856 (100.0) | 5 524 (100.0) | 6 390 (100.0) | 6 333 (100.0) |
( )は構成比を示す.単位は100万円.昭和35~55年は農林省茨城統計事務所「茨城の農業所得統計」,60年は「石下の統計」による. |
これはさきに述べたように、川西の地区が、首都圏の生鮮食品の生産基地としての役割を荷っていたことの反映とみてよい。また畜産も昭和五十年まで、順調な伸びをみせるが、その内容は養豚である。
右のような生産額の増加をみせる作目に対し、戦前期の隆盛の面影すらとどめぬのが、養蚕業である。大正期から昭和戦前期にかけ、農家の家計補充のために営まれた養蚕は、今やその地位を、日雇、臨時雇の農外収入に確実にその座をとって代わられたのである。