緩やかな民俗変化

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人々の習俗、慣行は、ある日突然に変化してしまったというものは少なく、ふと過去を振り返った時、子供や若者であった頃と現在の様子との様変りに、改めて驚かされるといったものが多い。しかし、現在から過去に遡ってみると、後述するような昭和三十年代後半以降の民俗変化とともに、一般的には第二次世界大戦を境にした民俗変化が大きなものであった。後者の場合、物資の欠乏、国家統制の強化とその反動、価値観の転換などが、大掛りな行事の廃止、神信仰の稀薄化、俗信と称されるような習俗の消滅などをもたらし、結果として民俗変化の度合いを大きくしているのである。
 石下町における第二次世界大戦を境にした変化の様子を、蔵持・同新田の年中行事を例にとってみると、戦後行なわれなくなったものに、一月の山入り、鍬入り、二月のササ神様、ダイマナコ・オセキマワリ・キッカブ祭り、四月の薬師様、お釈迦様、八月の燈籠流し、十月の十日夜、オヒマチ、十一月のカピタリ餅、十二月の大日様などがある(『蔵持の民俗』)。このうち山入り、鍬入りは予祝行事で、十日夜やオヒマチは収穫祭として行なわれてきたものである。一方オセキマワリ、キッカブ祭り、薬師様、お釈迦様、大日様などは念仏衆が関与してきたもので、念仏衆そのものがなくなったために、それに伴なって行事も廃止されたのである。こうしてみると、年中行事のなかでも農耕儀礼の予祝や収穫祭、念仏衆が行なっていた行事、さらにダイマナコや雨乞いなどのような、俗信にもとづく行事などが廃止されているといえよう。
 また小保川地区でも、庚申の日に集まっていた庚申講が、戦争で戦地に行く者が多くなったため廃止されたとか、同様の理由に加えて米が貴重品となったため、毎月二十四日当番の家に米四合ずつ持ち寄り作神を祀っていたべッカを廃止したと伝える。このように第二次大戦を境にして、廃止された行事や簡略化した行事も少なくはなく、全体的には神観念や神社祭祀が稀薄化し、淡泊になってきたといえよう。しかしながら、蔵持や小保川地区で戦前に廃止されてしまった行事でも、石下町全体からみると、他の地区では戦後も行なわれ、昭和三十年代頃迄続けられていたものもあり、第二次大戦を境にした民俗変化がそれほど大きくはなく、むしろ多くの行事や習俗が戦後も続けられてきたところに、石下町における民俗変化の特色の一つをみることができるのではなかろうか。
 第二次大戦の変化を含め、石下町々域における民俗変化は部分的な変化に留まっていることに気付く。この点は石下町の民俗にとどまらず、日本の民俗全体に共通することでもある。というのは民俗変化が村社会外からの新たな知識や技術の導入によって促されることが多いためでもある。小保川地区の民俗変化をみると、昭和十二年から十七年頃に電気が入り、照明がランプから電灯に変っている。昭和十五年頃からポンプ式井戸をつくった家もあるが、昭和三十年頃までは、どこの家にもハネツルベ井戸があった。農業においても、稲の品種が昭和十年代はアイコク、二十年代はオオゾラ、三十年代はトドロキ、四十年代はコシヒカリが作付けの主流になったほか、苗代でも昭和に入ってから水苗代・折衷苗代・陸苗代、近年の育苗床に変っており、脱穀機も、センバコキから足踏み脱穀機・回転脱穀機・動力脱穀機へと変化している。主食も昭和三十年頃まではほとんどが麦飯であり、その後白米に変った。社会組織では組合から隣保班制にかわり、その後も班の組替えがなされ、また自治会ができ、戦後は常設委員がなくなるなど、生活全般にわたって変化がみられる。
 しかしながら、そうした変化が一度になされたというのではなく、個々の技術・習俗の変化とそれに関連する若干の習俗変化にとどまっていたため、全体としては緩やかな変化となっているのである。