高度経済成長と民俗変化

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昭和三十年代後半にはじまる日本の高度経済成長は、都市への人口集中と農村の過疎化をはじめ、諸産業の発達と流通機構の整備・目覚ましい技術革新・情報化社会・都市生活の拡大などをもたらし、人々の生活に大きな影響を与えてきた。石下町々域においても例外ではない。たとえば昭和三十年に石下町全人口の六八・六%が農業従事者であったものが、約二五年後の昭和五十五年には二七・九%と全人口の三分の一以下に減少しているほか、農家戸数のうちの専業農家も昭和三十六年には六一・一%と過半数を超えていたのに対して、昭和四十年には四〇・五%と半数以下になり、昭和四十五年には二四・一%、昭和五十年には一二・四%までに減少している。さらに農家戸数自体が昭和三十六年の約三三〇〇戸から昭和四十五年の約二二〇〇戸に減少しているのである。こうした農家戸数、専業農家の減少に反比例する形で、兼業農家と第二・第三次産業従事者が増加していることはいうまでもない。
 こうした農家の減少、兼業農家・非農家の増加は、これまで農業に基盤をおいて伝えられてきた諸習俗を変化あるいは消滅させることになったのであり、さらには農業の機械化によって、農耕儀礼の多くはこの時期に行なわれなくなっている。このことは、先に昭和三十年頃までの民俗変化が緩やかであったと述べたこととも対応し、それまでの変化があくまで農業を基本においた、枠組のなかでの変化であったことを示すものであり、それゆえ、個別変化にとどまっていたのであると考えることができよう。
 農業の機械化という点では、昭和五十五年の統計資料から、専業と第一種兼業農家数一〇四三戸と機械台数とを仮りに対応させてみると、動力耕うん機・米麦用乾燥機は一軒に一台以上、動力田植機・動力脱穀機は一軒に一台弱、トラクター・動力噴霧機・育苗機・動力刈取機・コンバイン・農用トラックなどは二軒から三軒に一台という数字になる。この数字はあくまで参考にとどまるものであるが、いかに大型機械が普及しているかを示すものであろう。
 さらに家庭用電気製品の普及も目覚しいものがあり、たとえばテレビの普及をみると、昭和三十年には僅かに四台であったものが、昭和三十五年には四二〇台、昭和四十年には三五三四台と急増し、ほぼ一世帯に一台の割合になっている。また家庭用電話も昭和四十五年に三三〇台であったものが、昭和五十年には二六〇〇台と、二軒に一台以上の割合になっている(『石下の統計No.13』)。こうした数字にみる農業用大型機械の導入・家庭用電気製品の普及は、農作業や日常生活のあり方を大きく変えることになった。
 

Ⅴ-7図 大型農機具格納庫(上)と台所(下)

 これまで述べたような高度経済成長期を境にした変化は、当然のことながら農作業の変化・イイトリなどの減少をはじめ、味噌、醬油などの自家製品の減少と生活の画一化をもたらすことになった。さらに家で行なわれていた出産は病院で、祝言は式場でというように儀礼の行なわれる場所が分散化するようになり、これまで村内で行なわれてきた諸習俗が一変することになった。さらには道路の修理をはじめ行政の果たす役割が増大し、それに反比例する形で村仕事としての共同労働は減少している。そしてこれまでムラの役職につく人は、家格の上位の者や有識者であることが多く、役職の有無が村内における地位を表わしてきたのに対して、役職につくことが余分な責任、仕事を背負うものとして敬遠される傾向が強まっていることも、ムラが民俗を伝え維持してきたという役割を、減少させている現れとみることができるのではなかろうか。
 このように消えていった民俗・慣行が多い一方で、昭和五十年代に新生活運動が行なわれ、冠婚葬祭の自粛を申し合せたにもかかわらず、益々盛大になり派手になっていることも、この時期が示す民俗変化の一つとして挙げることができよう。このように高度経済成長を契機とする民俗変化は枚挙にいとまがなく、これは民俗の構造的変化・変貌とも呼ぶこともできよう。
 しかしながら、それにもかかわらず、村を単位としてのまとまりを示しており、伝統的な講や習俗が続けられているものも決して少なくない。そこに民俗自体のもつ性格をみることができよう。