木村については、「今の五箇村福田の人で豊田村曲田の萱場出生」とし、つぎのように紹介している。
彼は天保十四年(一八四三)上野国梁田(ヤナダ)郡(今足利郡)より高機製造職工を聘して高機(タカハタ)織
機を製作せしめて織機の改良に苦心を重ねたが、技術未熟なために能率の向上を達することが出来ず、且
機未だ熟せず里人皆従来の地機を優れりとして高機を使用する人がなかった。然し善兵衛氏は親戚知己の
練言、家人の苦言も意にせず一意専心たゞこの研究に没頭したために一時困窮に陥りしも屈せず改良と練
習を続けられた結果、遂に所期の織機を完成することができた。
他方高機にかんしても、つぎのように、これの改良について述べている。
嘉永三年(一八五〇)に石下村の高橋直右衛門氏がこの高機を据付けて漸次改良を加えられた結果、広く高
機が普及して明治元年頃には地機は其数を減じ高機の増加を見たのでその製品も二倍三倍と増加し、農家
の経済も織物に頼るようになった。
右の引用の内容は抽象的ではあるが、新井氏は他の箇所で、天保期の金子借用証文に「但返済の儀は来る六月廿日限り紅花、綿、小麦を以て無相違御勘定仕候」とあることから、この地方で綿が重要な畑作物の一つであったことを指摘されている。したがって、木綿織物が、幕末・維新期には確実に行なわれていたといえる。
しかし、木綿縞織物の産額は必ずしも多くはなかった。新井氏は「手曳綿糸を造り……地機(ヂバタ)織機で家庭工業的に木綿を織って居たが其産額は微々たるものであった」とされ、県農会の調査(茨城県農会『茨城の農家副業』続々編)でも、高機の導入により、織物の産額がやや増加したものの、「其の原料は一に手曳製の糸なりしかば、其数量尠く従て多額の生産を致すに苦し」んだといわれている。
ここで木綿縞織の原料としての棉花の需給状況を見れば、国内の棉花生産は、政府の棉作維持奨励策の放棄により、明治二十年を画期として崩壊する。これは外国産棉の輸入激増にともなって起ったことであるが、明治二十九年、棉花の輸入関税の撤廃により、日本の棉作は最終的崩壊の局面を迎える。しかも明治二十三年には国内の綿糸産高が、輸入高を上回る。しかも明治三十年には綿糸の輸出高が輸入高を上回るようになる。このため、生産高の隘路であった綿糸は充分に供給され、石下縞の銘柄が敷衍するようになる。
綿糸の供給にもかかわらず、染色の原料としての藍の供給が不充分であったため、粗製品が市場に出回り、石下縞は深刻な危機に陥る。さきの県農会の調査は、「藍の価格騰貴せるより、之に代ふるに新染料を以てし其の濫用に依り大に声価を失墜せり」と報告している。これは明治二十年代のことである。
藍は簡単に染料になるわけでなく、藍を発酵させて、藍玉とし、これを染色に用いる(以下染業については町内の斎藤芳太郎氏の御教示による)。当地方の風土が藍作に適するといわれるが、藍玉を製造する技術はみられず、しかも農閑期に営まれた機織りのための綿糸の染色は、必ず紺屋に委ねられていた。
町域の染色業は、藍を阿波徳島から購入していた。綿糸の染色工程は、藍玉を石灰または苛性ソーダ(昔は草木灰のアクを用いた)を用いて還元させ(藍だて)、これに綿糸を浸して藍の発色成分であるインディゴを付着させる。インディゴは空気中で酸化され、はじめて発色する。このように、染色の工程そのものは単純である。
紺屋にとって重要なのは、藍のねせ方である。スクボ(麦ガラ)を燃料とする火床には藍釜が据えられているが、釜四個で一坪になる。一坪は火床の単位でもあり、一坪の藍釜に一俵の藍玉が使われる。一俵は一六貫(六〇キログラム)ある。一坪にある四本の藍釜には水、石灰、藍玉が入っているが、その各々は、カメのぞき、白消し、水浅黄、浅黄と、藍の濃度が異なっている。藍だてにより発色は微妙に変化するというから、石灰の分量の加減が紺屋の死命を制するのである。
石下木綿縞は、同質の糸を用いた全国産木綿縞平均の重量よりは二割ほど重いとされる。このため製品に占める原料費はかさみ、一割五分ほど高価に売買せざるを得なくなり、販売競争に不利であった。しかし製品は堅牢であり、耐久力に優れた特色も具備していた。このことは、石下縞が作業衣などの実用衣料として優れていたことになる。しかも藍染の衣類は、農作業において、毒蛇や毒虫の被害を防ぐ効能があったといわれる。
失墜した石下縞の声価を挽回するための努力は、明治二十年代の後半にみられる。
明治二十七年五月と明記された「石下物産縞木綿仲買商同盟規約」でも、「木綿縞の品質改良を促し、販路之拡張を図を目的とす」とあり、品質の改良により販路を拡張しようとするものである。この同盟には飯村九平、草房佐平、増田八郎、吉原総太郎、黒川清吉、吉原嘉七、広瀬嘉平、野村勘七、鈴木直一郎の九名が名を連ねている。
品質について、規約は厳格な規制をしている。第九条は、「同盟者は左之品位を備ふる品に非されば売買すへからず」として次の五項を定めており、しかも第一二条においてこれを店頭に掲示することを義務づけている。
○紺ハ正藍にて染たる者
○雑色ハ変褪色せざる染料を用ひたる者
○長弐丈八尺以上幅九寸五分以上ノ者
○製造人名の洩れのある者
但並縞ハ此限りにあらず
さらに右の「格に合ざる品物を売買せし者ハ、同盟総会を開き、積立金(五円)を没収し同盟を除名す」(第一〇条)とも規定している。しかも紺屋に対しては支配が及ばなかったのであろうか、機織家に対してつぎのような罰則を規定している。
機業家に於て疑紺其他不正の所業あるを見聞せる時は事務員へ密告し、事務員ハ同盟者へ急報し、同盟者
は其者と取引を謝絶すべし
仲買商の組合とは別に明治二十八年八月二十七日、茨城県指令第四二五五号によって認可された「織物業石下組合規約書」は、同業組合準則に基づいて設置された下総物産織物業石下組合の規約で、ここに本格的な同業組合が誕生したことになる。組合は組合区域内に居住して織物業を営む者をもって組織され、石を徽章とされる。ここでいわれる組合区域は、川東の石下村、玉村、豊田村のほか、五箇村、三妻村におよんでいる。設置の目的はもちろん「織物ノ品質改良」にあった。
右の規約では、「純朴堅牢ノ品質ヲ製センコト」を目的として(第五条第一項)、その方法として、組合員の製品は「紺ハ正藍染ニ限リ雑色ハ変褪色セサル染料ヲ用ユ」(同前)と、さきの仲買商の規約と同じことをうたっているが、さらに「組合員ハ染糸ヲ検定会へ出シ是認ヲ経シモノヲ用ユベシ 但染色用薬モ本項ニ因ルヘシ」(同第四項)とあり、不良品の流通を未然に防止しようとする姿勢がうかがわれる。
染糸の検定法は、「第七条染色検定会に関スル規定」に定められている。同会は毎月一回組合員の総会とし(第一項)、「染色及染料ニ供スル薬品ノ検定ヲナシ併セテ染色術の研究ヲ為スモノトス」とある。この頃に硫化染料が導入されたことがうかがえるのであるが、化学染料は染色方法が簡便であり、大量かつ廉価に染色できる利便があった。しかし化学的性質が強アルカリ性であるため、絹の染色には不向きで、あえて絹に用いる場合には保護剤としてブドウ糖が用いられた。この場合には、手間がかかるので、採算割れになることが間々あった。
染色の検定法であるが、「染色ヲ(一)曹達水ニ煮沸シ (二)醋酸水ニ煮沸シ、倶ニ変褪色セサルヲ用ユヘシ」(同第三項)と定められている。アルカリにも酸にも安定した染色が求められている。
規約では違約に対し処罰の規定も盛られている。偽紺または変色、褪色の染料を使用した者に対する、違約金の額を定めている。
上述のように、石下縞の声価を下落させたのは、染色の不良による粗悪品の販売であった。この期に成立する規約においても染糸業者に対する規制が厳しく盛りこまれているのもそのためである。にもかかわらず、問題は解決するところではなかった。明治二十九年五月十八日の日付がある「示談書」には、木綿縞仲買商の手許にある九五九反の不良紺製品を七七九円八三銭二厘で買い戻すこと、違約三八名の違約金一五〇円を石下組合に払い込むことが記されている。買戻金、違約金は染業者が支払うのでなく、織家が支払うことになっている。
集中的に染業者に対して規制が加えられたにもかかわらず、染色不良製品がなお跡を絶たなかったことは、紺屋の悪意によるものとは考えにくい。明治二十年代は、染料の交替期とみてよく、新たに導入された化学染料を使いこなす技術を、当地域の染業者か持ち合わせていなかった、とみたほうか合理的である。
一旦失墜した声価を挽回するには、多くの困難が伴ったようである。石織物業石下組合は「結城特有物産広告」をチラシで残している。「一ツトセイ」から「十トセイ」までの数え唄で、「良品(よきしな)作れば売高も 年々 数増 ありがたさ/\」と、不良製品を製造した反省をこめたものもあるが、一〇節のうち三節は染色にかんするものである。「色糸改良アリザリン 紺は正藍 褪(さ)めはせぬ/\」と染色原料の確かさを訴え、「名入の証票織込ば 偽紺あったら お返しな/\」「紺の偽染 できるから 織物証票 見て買な/\」と、石石下組合員の製品の品質保証もしている(さきの織物業組合規約の第五条第二項で、組合員の製品には「正紺保証 茨城県下総物産織物業石石下組合製造人何某 尺幅改正」の証票を織込むことが定められている。寸法は長さ一尺五分、幅二分五厘の極大の証票である)。
Ⅵ-1図 結城特有物産広告