明治後期の綿織物

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同業組合成立時の織物産額をみたのがⅤ-1表である。町域の岡田郡と豊田郡においては、結城郡とは、明らかに差がみられる。第一に規模の大きさであり、結城郡の機戸一一四九、職工数一一九〇人は三郡中群を抜いている。したがって産額も、岡田、豊田両郡の及ぶところではない。第二に産額中に占める絹織物の比重の高さを指摘できる。産額においては綿織物の一・六倍になる。これに対し、岡田郡において絹織物は全く見られず、豊田郡においても総産額の一・五%を占めるにすぎない。
 岡田郡において、機織は農家の自給用あるいは副業として家計補充のためになされていたとみられる。一三五戸が一家一台の機織機をもち、生木綿、縞木綿などを織って衣服の材料に供していたであろうし、余剰は販売にも向けられていたであろう。豊田郡においては機戸は少ないものの、機数は九四六もあり、しかも一〇〇〇人を超える女工を擁し、男子職工まで雇用していたのである。石下を中心とする機業は、結城をしのいでいたとみてよい。ただこの年の縞木綿産額が結城郡を一七%も上回っているにもかかわらず、価額において四五%にとどまっているのは、粗悪品の製造によるためであろうか。表からは確定できない。
 
Ⅵ-1表 織物産額
岡田郡豊田郡結城郡
機    戸1355301 149
機    数1359461 191
職   工
 
49
19
1 002
 
1 191






鈍子織数量(反)
価額(円)
30
135
10
55
紬太織数量(反)
価額(円)
10
40
16 220
89 100
紬飛白数量(反)
価額(円)
6 000
54 000
糸織類数量(反)
価額(円)
20
80
平絹数数量(反)
価額(円)
5
12
絹綿交織物数量(反)
価額(円)
130
260
200
500
綿



生木綿数量(反)
価額(円)
2 487
844
75
30
150
120
晒木綿数量(反)
価額(円)
800
280
縞木綿数量(反)
価額(円)
1 298
589
26 380
18 039
22 600
39 730
雑織物数量(反)
価額(円)
125
250
「茨城県勧業年報第15回」(明治28年分)による


 
 しかし、豊田郡における機数九四六に対する職工一〇二一は、結城郡におけるそれをはるかに上回っている。ここでは、農家の子女を広汎に雇用し、機織業が営まれていたはずである。彼女らは早朝から夜まで機仕事に使役されていた。
 新井省三氏は「明治時代の石下機織唄」として採集された歌詞を残されている(同前)。八種の歌のうち三種は、つらい労働の歌である。
 
 機織りしてたんじや 湯も茶も飲めぬ
   一升買いでも お主のそばだ
 いやだおっかさん 機屋の年期
   朝の早うから 起こされる
 仕舞頃だよ 天井の星は
   もはや機場の 屋根の上
 
 ここで想起されるのは、大正期に細井和喜蔵の採集した紡績工場の女工小唄である。
 
  四つとせ、夜も寝ないで夜業する
  長い寿命も短こなる
  皆さんあわれと思わんせ
 
 そして戦後、山本茂実の採集した製糸工女の糸ひき唄がある。
 
  工場閉って戻れば寄宿 蛙なく夜の故里(さと)思い
 
 四囲に堀をめぐらされ、窓に鉄格子のはまった寄宿舎に住まい、夜業のために「長い寿命も短」かくされた紡績工女も、寄宿で望郷の思いに駆られる製糸工女も、日本資本主義の今日的繁栄の基礎を築いた点で共通する。彼女たちの嘆きと、「湯も茶も飲めぬ」「いやだおっかさん」と歌う在地の機織工女を比較すれば、両者にかなりの隔りを読みとることができるであろう。
 前項でみた石石下同業組合の規制は功を奏したもののようで、ついには「女工一二〇〇人、七四企業で年間五〇万反」の実績をもつまでになったといわれる。「紺地(経二八番手)に茶又はネヅミ色に染色した綿糸(緯二〇番手~二四番手)で織った男物」が主製品であった。
 年間五〇万反の産量を示す史料は他にない。さきの県農会の調査によれば、明治二十九年の三二万九〇〇〇反を最高に以後減少傾向がつづき、明治三十八年には三万二〇〇〇反にまで落ちこんだ。同調査は「明治三十八年以後絹綿交織加はり来り、明治四十二年以後更に絹織加はりし」といい、明治三十八年以降、絹綿交織の生産を余儀なくされたことがわかる。
 石下縞を苦境に陥らせたのは、木綿縞産地として有名な遠州、三河方面で織られた遠州縞である。遠州縞は機械紡糸の細番手の糸を動力織機で織ったものである。化学染料を使用した染色法を採り入れ、大量に均一な製品を生産することができたばかりでなく、洗練された縞柄に加え、石下縞の半値という価格は、市場の評価を決定的にしたはずである。石下縞の販路は、農会の調査によれば六割が名古屋、京都、大阪、奈良等に仕向けられたから、その市場は、容易に失われたことであろう。