初代秋場三松は、文久二年(一八六二)十一月二十四日に水海道村諏訪山(現水海道市栄町)に生まれた。医師秀佳の次男である。若年の頃は結城織物の修業をしたといわれ、明治二十四年(一八九九)には、東京日本橋に結城物産織物問屋を開店する。いわゆる買継ぎ問屋である。
添野好氏の著わした『秋場三松翁小伝』は昭和四十八年に刊行されたのであるが、優れた伝記である。氏は本書に明治三十四年七月三十日現在の、秋場商店における貸借勘定(貸借対照表)を記している。これによると借勘定は機屋五軒に対し九円五九銭、不明その他一八円三七銭二厘、資本金六〇〇〇円だけである。一方貸勘定の主なものは、産地機屋六四軒へ一一三一円一四銭八厘、染屋三軒に四五円六〇銭、地方小売商六軒に一三六円、縞木綿現在高八五四円六二銭五厘、綿糸現在高一五四八円八八銭二厘、繭買入金二四八円九二銭五厘などがみられる。そして東京店帳尻一二六六円一六銭のほか、水海道商品一二五円、水海道銀行預金二〇〇円、石下銀行株式二一〇円がみられる。
右の貸借勘定の特質について、添野氏は二点を指摘している。第一は、水海道商品以下の貸勘定にみられるように、「殆ど産地機屋との取引関係のみで、既に創業十年足らずで東京の店とは別に、産地に経営体を分離した店を持っていたことが判」ることである。
第二に、借勘定が皆無に近いことを挙げ、さらに貸勘定は機屋に対するものが多いことを指摘している。ここで重要なのは「これは石下の産地に対して、資金又は原料を貸して、製品を一手に引受けていた事に外なりません」といわれていることである。買継ぎ問屋としての秋場商店は、原料である綿糸を、ときに染色までして、機屋に供給して木綿縞を織らせ、それを各地集散地に卸していたのであり、自ら販売することもあった。さきの貸借勘定にある一五〇〇円を超える綿糸現在高は、機屋に供給すべきものとみてよい。明治三十四年下期の取扱数量は二万一七三一反といわれるので、年間四万反前後とすれば、明治三十五年石下木綿生産総反数一二万〇〇〇反のほぼ三分の一になり、石下地方の機屋の多くは、問屋制家内工業として組織されていたことになる。
明治四十五年に秋場商店は、最も緊密な関係にある機屋数軒(大正初年には遠州綿に駆逐されて機屋は一二、三軒になっていた)を組織して、結城郡織物業巴組合を組織する。そして大正六年、竹村家の酒倉跡で、足踏機数台を入れた工場を設立し織物製造を開始する。秋場工場の誕生である。
石下織物の織機は、ジバタ―ハンタカ―タカハタ―バッタンと進化してきたが、これらは一丁杼で織るため、操作は簡単であった。しかし「左右の強撚糸を交互に織込むという事は非常に面倒だった」ため、能率はきわめて悪かった。三松翁の導入した足踏織機は、栃木県佐野市の田島代吉の考案によるもので二丁杼を使用するため、能率は格段に向上した。足踏機は「石下産地に革命をもたらす」といわれたとおり、機屋は競って旧来の手機と入れ替えた。このため、織工の不足をきたし、大正九年十二月には、足踏織機の講習会を開き、技術の伝達も行なわれた。
大正十二年には秋場工場に動力織機一二台が導入される。工場制手工業から機械制工場への脱皮である。この翌年に添野氏は秋場商店に入店するのであるが、後日、はるか半世紀昔、入店当時の織工のありようを、つぎのように回想している。
当時の織工員の雇用制度は、年度替り十二月末に来年度の雇用契約をします。一ケ年仮に三〇〇反の織
上契約を致しますと縞一反の織賃二五銭としますと、一年七五円となり、先貸しをしますが、契約金とし
て三分の一から二分の一即ち二十五円か四十円を契約者に渡します。契約者は保護者であって本人ではあ
りません。本人の父親か母親が契約金を受取り本人には殆んど工賃は渡りません。例外として毎月働いた
賃金を本人が貰う工員もおることはおりました。契約反数以上を一ケ年に織った場合はその過剰分は、勿
論織賃として本人に手渡しますが、契約反数に満たない場合は、「未進」と云って翌年もその不足分を織
上げなければなりませんし、また年期と云って養成工のことですが、小学校卒業程度の少女を三年間に一
人前の織工に養成する制度で、寄宿舎に住込ませ、衣類、賄、小遣等全部雇主負担で、契約金約五十円で
した。その契約金の二分の一か三分の一は、矢張り保護者が持って行ってしまうのでした。
当時の我国の経済状態とか思想とか全てが、今では想像もつかない程貧困だったのです。
それでも少女等自身としては、遠くの地の紡績工場などへ働きに出されるよりは町内又は隣接の農村の
実家へ、毎月一日と十五日の定休日には帰宅することも出来たりしましたので、結構子供心に楽しく暮し
ていたのではないでしょうか(以上の引用は添野氏の著書による)。
秋場工場は以後も順調な発展を遂げた。昭和四年、経済恐慌の最中にも、下妻の倒産した織物工場を移築するなど、設備投資をしている。これにより、茨城県唯一の機織工場として君臨する。足踏式機織八〇台、動力織機六〇台を擁し、従業員二四一、うち職員七、男工員六〇、女工員一七〇、雇四である。昭和七年における工場製造高は二万二五一八反にのぼる。しかし、この期においても、商人資本としての痕跡は残存している。出機、賃機として工場外で製造されたもの九五五三反、買入反数四一七九反、これらは工場製造高の六〇%を超えるのである。以後戦時の統制経済の体制下に入り、昭和十八年一月石下工場は閉鎖され、軍需品を生産する東京晃機と合併を余儀なくされた。