実業補習学校

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「実業補習学校」は社会教育の中核であったといわれているが、「実業補習学校規程」が時の文部大臣井上毅の手によって公布されたのは明治二十六年(一八九三)のことであった。当時急激に発達した繊維工業や軍事工業の労働要員としての勤労青年の質的向上を目的としたものである。しかし「実業補習学校設備準則」が公布されたのは日露戦争終結の明治三十九年(一九〇六)であった。玉小学校長荒川徳次郎は早速「玉村実習補習学校」附設の申請をなし、同年十一月十九日に認可された。
 しかし生徒はなかなか集まらなかった。当時石下町外六か村の耕地整理事業が進捗中で、青年達の多くはそこの人夫として働いていたのであった。女子は、村内三か所の裁縫稽古所に通っていたので、裁縫所を訪ねて勧誘し、家政一般と修身学等の講話をすべく計画した。そして裁縫所と談合の結果、その全員を、一週に二日位小学校に召集して講話することにした。男子部は方法を換えて、四十一年一月からは夜間授業に切り換えた。この年には「飯沼農業補習学校」も附設認可が下りて開講の運びとなり、近隣の町村でも概ねこの時期に附設を完了した。期間は十二月から三月までとし、修業年限は概ね二か年とした。
 教師は「教授季節中月手当二円ヲ給ス」等の兼任辞令を拝領した小学教師が担当し、国語、珠算、時事問題解説、農業概論、歴史等を各分担し、男子部は夜間約二時間の授業を行なった。時には弁論会、討論会、部外からの講師招聘の講義を計画する学校もあった。
 当時は娯楽機関も少なかったし、特に男子には徴兵検査という関門があり、壮丁検査時には学力検査もあったので、案外真面目に出席した。大正九年(一九二〇)から十二年頃まで石下小学校に居て、補習教育にもタッチしていた倉持豊三郎が、「私と教育」という著書の中で、当時を懐古しての記録があるので当時の補習学校教育の一班を知る意味で、次に紹介してみよう。
 
  農閑期の夜には、青年男子は補習学校に来た。西洋史を勉強している鈴木悟郎先生などは熱弁をふるって
  生徒達を傾聴させたものだ。女子の夜学は無理であったが、裁縫所にはよく通った。町には大きな裁縫所
  が二つあった。女子のためには裁縫所に行って指導しようと交渉したら、二ケ所とも喜んで賛成してくれ
  た。週一回ずつであったろうか。常識的な指導であったが、私は時事問題などを扱った。時に結婚問題な
  どをとりあげたことがある。当然恋愛と結婚ということにも言及した。私は結論として、恋愛は尊い、し
  かし結婚を前提としての恋愛でなくてはならないと説いた。考えてみると、二四歳で独身の私が恋愛論結
  婚論をやったのだからあきれる。しかし私も生徒達も実に真剣であった。私は石下校に三年いて、宮城県
  石巻中学(旧制)に赴任したのであるが、石下駅を立つ時は、大勢の裁縫所の生徒が見送りに来てくれた
 
 「実業補習学校」は大正十五年(一九二六)六月には「実業公民学校」と改称された。
 

Ⅶ-5図 明治末期の裁縫所生徒お針っ子
(篠崎正雄氏提供)

 これより先大正十三年十一月には「全国学生軍事教練反対同盟」等が結成されたが、翌十四年四月からは、中学、師範、高専等に軍事教練実施のため現役将校が配属されるに至った。こうした事態に呼応して、勤労青年を対象として軍事的資質向上のために、大正十五年四月二十日「青年訓練所令」が公布され、七月一日を期して一斉に開設されることとなった。玉村では、六月二十九日、「玉村青年訓練所」を「玉農業公民学校」に併設の認可をとり、七月二十五日青年訓練所の入所式を行なった。各地区町村でも同じころ同じような手続をとって開設の運びとなった。
 訓練所における教練指導員の主力は在郷軍人が之に当り、五か月間の短期現役修了の小学教師が助手格で担当した。
 昭和五年(一九三〇)三月十日の陸軍記念日には、水戸第二連隊から機関銃隊が参加して、二〇〇〇名の青年訓練所生が結城市附近で大演習を行ない、石下地区の青訓生も参加した。
 昭和六年には満洲事変が勃発、七年には、真壁、結城、筑波三郡連合青訓生四〇〇〇名参加の大演習が鬼怒河畔で展開され、いよいよ国軍予備軍の様相を色濃くした。
 実業公民学校と青年訓練所とが実質的に統合されたのは、緊急勅令により昭和十年(一九三五)四月一日青年学校令が公布されてからである。十四年からは男子に対しては義務制となった。戦時対応の教育計画であった。
 青年学校令公布の結果、各町村では男子と女子の専任教員を雇って充実を期し、また青年学校教員養成のため青年師範学校を設立したり、応急施設として青年学校教員養成所を開設したりした。もともと青年学校は、国家非常時の要請で生れたもので、地域の特性とか、青少年の自主性とかを無視した強制の教育機関であって、主たるねらいは軍事教育にあったので、かつての実業補習学校等とはかなり性格のちがうものとなった。