家塾教育

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勤労青少年の教育で忘れてならないのは各地で開かれていた「家塾」の教育であろう。ややまとまった資料が残存している関係で、「絹西学舎」の教育について述べてみよう。「絹西学舎」は、飯沼村古間木において、小野村佐一郎によって経営された、尋常高等小学校高等科を卒業した生徒を対象とする家塾であった。
 小野村佐一郎は、明治十五年(一八八二)古間木に生れ、飯沼小学校高等科を卒業の後花島(現水海道市)の渡辺武助経営の「華洲塾」に学び、三年修業の後自宅に在って研修につとめ、教員検定試験を受けて小学校教員の資格を獲得し、明治三十七年(一九〇四)三妻村立三妻小学校(現水海道市)に奉職、昭和初年に至るまで勤務した。
 開塾したのは昭和七年(一九三二)頃で、十八年頃まで続いた。その間約三〇〇名の生徒を送迎している。同家所蔵の「入舎生名簿」「出席表」や自家編成の「漢文入門」等の資料により、その概要を述べてみよう。
 授業期間は十二月から翌年三月までの農閑期が原則であったが、それにかかわりのない若干の人は期間かまわず来ていたようである。
 驚くことは、出席表の写真(Ⅶ-6図)にみるように、出席率が相当に優秀であったことである。
 

Ⅶ-6図 生徒出席表(小野村忠夫氏蔵)

 「入舎生名簿」から入舎生の地域の広がりをみると、かなり広範囲から来ていた。現在の石下町域では、古間木を中心に古間木新田、蔵持、蔵持新田、中沼新田、鴻野山、篠山、鴻野山新田、左平太新田、大沢新田、崎房、馬場、新石下等から入舎している。現在の猿島町地区では内野山、沓掛、諏訪山等、水海道市地区では、三坂、花島、福二、五郎兵衛新田等、岩井市地区では、幸田新田、平八新田、神田山新田等の地区から入舎した。
 教科としては、珠算、習字の外、自家編成の「漢文入門」による漢文読解の基礎的指導と、時事問題の解説等であった。
 小野村塾は相当の実績をあげたもののようである。それは「華洲塾」に学んだ小野村佐一郎が、往古の華洲塾をゆめみての懇篤な指導と、財力的にかある事情によってか、中等学校に進学できなかった農村の中堅となるべき意欲と入塾の誇りとを持って、学習欲に燃えた生徒達との投合によるものと思われる。おそらく眼前に迫っている軍隊生活を優位に過したいだけの欲望で学んでいたとは思いたくない。
 これに先立ち、明治の初期、中期にも各地で塾が開かれていたようである。篠山(峯)集落における「坂入塾」もその一つである。篠山(峰)集落の北端近く、椎の古木生い繁る薬師堂鎮座の一隅に「故坂入貞蔵君之墓」と銘した筆子塚がある。裏面に、明治三十九年九月十五日死亡、五八歳とあり、願主坂入彦二、明治四十三年一月三十一日とある。台石の左右に、増田源吉外一六名の世話人の名前が列記されている。おおかたは篠山集落の人で、一、二名向石下、杉山、新石下の人の名もある。残存資料がないので内容については不明だが、裏面に筆子一二〇名とあるから、相当ににぎわった家塾であったらしい。
 山口には飯山巳之吉の筆子塚がある。幕末から明治初年にわたって家塾を開いていたもののようである。中沼墓地には、門弟たちによって建てられた石川安兵衛の板碑がある。