青年団活動

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青年団活動を一つの教育の機関として考える場合、その特質ともいえるものは押しつけ教育でなく、会自体の自主的活動であったこと、仲間意識でつながる集団活動であったこと等であろう。しかし、真に青年達の自主的活動の様相を示すようになったのは、少なくも大正デモクラシーの影響を受ける大正末期以後のことであろう。
 江戸時代の「若衆組」の延長として、若者達が「青年会」として脱皮し組織として活動をはじめたのは、明治二十三年(一八九〇)頃からであるといわれているが、それは自由民権運動などの影響をうけたある特殊な地域であろう。
 石下町で記録に残っているもので、最も古い青年会運動が起ったのは国生地区の長塚節を会長とする会活動であろうか。節の師正岡子規は、明治三十五年(一九〇二)九月十九日死去の一か月前に、節に長文の書簡を寄せている。その中に「……ソコデ僕ノ考ヘルニハ君ニハ大責任ガアル、ソレハ君ハ自ラ率先シテ君ノ村ヲ開カ子(ネ)バナラヌ」と、独善的態度を捨て、大いに村自体の経済的文化的開発に力をつくすべきことを諄々と説いた書簡であった。この師の遺訓を守ってか、青年運動にのり出したのは明治三十八年二七歳の時であった。長塚節全集(春陽堂版)第五巻年譜十二月の項に「炭焼農事に努め、村最初の青年会長に選任され活躍、その功績により結城郡長より表彰を受ける」とある。堆肥生産では優等賞をもらう程の節であったから、農事一般の改良等を中心に風紀矯正等などに活動したらしい。
 青年会の結成は、大勢としては明治末期らしい。石下、豊田地区でもこの頃であった。古間木では、明治四十四年(一九一一)五月に結成した。「飯沼村郷土誌」により、古間木青年会の活動の概要を述べてみよう。
 
   会の目的及び施設事業
  一 矯風ヲ主トシ親睦ヲ以テ学術ノ進歩ト農業ノ改良ヲ図ルヲ以テ目的トス
  一 斯上ノ目的ヲ達スル為メ学術体育試作貯金等ノ事ヲ施設実行ス
   会員 四六人
   組織
  会長 中山平治 副会長 青木周作
  顧問 伊藤隆次郎 渡辺福禄 筑波倉一 稲葉又一 渡辺伝次 相川和吉
 
 満洲事変、支那事変、第二次世界大戦と際限なく戦争が拡大し、戦局急を告げ、銃後の奉仕活動に、軍事工場への勤労動員に、兵役年令繰り下げに、団幹部の応召にというに至っては青年団活動もまひ状態にならざるを得ず、昭和にはいってから各地域とも官制青年団から脱皮して、団員自体の積極的な自主活動へと転換したことも一場の夢と消えざるを得なかった。ただこの非常事局に女子青年団の農耕部隊編成等による銃後の生産活動への参加などは、やはり特筆すべきことであろう。
 

Ⅶ-7図 岡田村女子犁耕隊(昭和18年,中山勇太郎氏提供)