そうした事で、旧制中学校や高等女学校等のいわゆる中等学校へ進む者は、地域や年度により差異はあったがせいぜい一〇%程度であった。高率の地区でもせいぜい二〇%位のものであった。では、この地区の人々はどこの中等学校へ進学したか、その概要を述べてみよう。
長塚節は、下妻の真壁郡立第二高等小学校卒業後、水戸の茨城尋常中学校(現水戸一高)に入学した。明治二十六年(一八九三)のことだ。当時県内では、中学校は一校だけであったから、中学への進学希望者は水戸に行くか、あるいは縁を求めて東京に行くか、浦和等近県の中学校へ進む外はなかった。
『富村登自伝』に次のような記録がある。
同室の学生は大四郎(秋葉猗堂四男)及び秋葉誠一(明治義公中学生、秋葉類助長男)の二人。第一高等中学
校(旧制高等学校)生徒秋葉三郎(猗堂三男、理科)が時々寄宿から来た(三四頁)。
これは富村登が、水海道高等小学校を卒業後、水戸か東京かの中学校の選択に迷った末、東京の独逸協会中学入学を決意し、親戚筋の秋葉猗堂を頼って上京し、猗堂宅に下宿した時の追憶話の一節である。
水戸の茨城県尋常中学校の分校として下妻中学校(現下妻一高)が開校したのは明治三十年(一八九七)で、独立校として下妻中学校となったのは明治三十三年(一九〇〇)のことである。この年水海道に下妻中学校分校として水海道中学校(現水海道一高)が誕生、三年後独立して水海道中学校となった。したがって当地区の中学校への進学者は通学距離の関係上、その大部分は下妻中学へ進み、豊田、石下、飯沼等の南部地区の人達は水海道中学へ進む者が多かった。
現在の下妻第二高等学校は、明治四十二年(一九〇九)下妻町光明寺住職三浦空成が、寺内に私立絅文女学校として創立したもので、大正八年(一九一九)下妻町立実科高等女学校となり、昭和十七年(一九四二)県移管となり、県立下妻高等女学校となった。水海道第二高等学校は、明治四十四年(一九一一)水海道外六か村組合立高等女学校として開校、大正四年(一九一五)独立して御城実科高等女学校となり、大正十一年(一九二二)県移管となり、本県三番目の県立高等女学校となった。
Ⅶ-8図 明治の女学生(篠崎正雄氏提供)
上郷高等学校は、昭和二年(一九二七)上郷村外二か村組合立農業実習学校として開校、昭和十一年県に移管され、県立上郷農蚕学校となり、戦後上郷農業高等学校、上郷高等学校となったものである。現在の下館第一高等学校は、大正十二年(一九二三)下館町外七か村学校組合立商業学校として開校して、商業の町下館に創立され、昭和三年に県立下館商業学校となったが、戦局が進むにつれ、国家的要請により県立工業学校と転換したが、戦後下館中学校と再転換、学制改革により下館第一高等学校となった。商業学校時代に石下町の商家子弟の若干がこの学校に進学した。
水海道に創立された私立菁莪学館は、大正七年(一九一八)水海道中学校の教頭であった安藤誠によって建てられた修業年限三年の私立中学で、幾多の人材を輩出したが、戦時下の私学統制令で昭和十九年三月廃校になった。大正十二年(一九二三)同校に在籍した者は石下町(一三)、玉村(一)、飯沼村(五)、岡田村(一)の二〇名であったが、開校以来では本町出身者も相当数にのぼるであろう。同じく水海道に創立された城北女学校は、桜井三郎、きち夫妻によって昭和元年開校された。本科三年、研究科一年で、裁縫、家事を目的とした実務教育をねらいとしたが、やはり私学統制令で廃校となった。
昭和六十年(一九八五)における高校への進学率は男九七・二%、女九七・九%、平均九七・六%という高率で、茨城県の平均進学率九四%をはるかに越え、しかも女子が優位にあることを思う時、まさに隔世の感を抱かざるを得ないが、戦前における中等学校への進学状況及び進学先は概ね以上のようであった。