戦時下の教育

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明治十八年(一八八五)、はじめて内閣制度が出来、初代の文部大臣となった森有礼の教育思想は「国体教育主義」とさえいわれるもので、強固な国家主義的教育思想を根底にすえての富国強兵の教育政策であった。十九年公布になった師範学校令に基づく師範教育には、兵式体操をとり入れ、全寮制の師範学校ではラッパによる起床点呼を行なうなど、日常生活の中にも軍隊の生活様式をとり入れた。そして兵式体操は小学校にもとり入れ、木銃を使用しての兵式体操は秋季運動会の呼びものの一つとして大正時代まで続いた。
 十九年の学制改革では、小学校四年までを義務制とし、その上に高等科四年を置く二段階制にし、中学校も尋常中学(旧制中学)を五年とし、その上に高等中学(旧制高校)三年をおいた。師範学校も各修業年限を四年とする尋常、高等の二段階とした。そして大学へは、高等中学を卒えた者が進む制度とした。そしてそれらのすべてに教練を課し、中学以上では退役将校を以てその指導に充てた。
 明治二十三年(一八九〇)十月には新しく小学校令が公布された。すでに欽定憲法が発布され、同年十月三十日には、山県有朋総理の責任において起草中の教育勅語が発布されたので、それに同調した教育令であった。したがって、忠孝の儒教的道徳を根幹とする道徳教育と、国民教育を上位概念とする精神教育を第一義とする法令であった。したがってまた教科としては修身が筆頭科目であった。こうした指導精神は昭和に至るまで遵守されたが、昭和六年(一九三一)満洲事変が起り、連鎖して起った支那事変が泥沼的様相を示すに及び、改訂の必要に迫られて、皇道帰一の精神で一層強化統括の必要から公布されることになったのが昭和十六年(一九四一)の国民学校令である。
 これより先、昭和七年には十月に大日本国防婦人会が結成され、銃後の守りは婦人の手でということになった。この頃から学校もまた戦時体制に組みこまれ、六月になると約一週間の農繁期休業をとり、尋常小学高学年以上は直接農事の手伝をなし、非農家の児童は奉仕隊を組織して、出征軍人家庭への労力奉仕をした。秋季にも農繁休業をする学校もあった。同八年には第一回関東地方防空大演習を行なった。
 学校でもおちおち勉強もできなくなった。出征兵士があるたび、村境、またはもよりの駅まで日の丸の旗を振って見送り、または帰還兵の出迎い、武運長久の神社参拝、神社清掃、慰問文や慰問袋の作成等いよいよ戦時色は濃厚となった。こうした事態を背景としての国民学校令である。
 

Ⅶ-10図 入営兵士祈願と労力奉仕(木村格之助氏提供)

 この法令の第一特異点は、義務教育の八年制への延長であったがこれは実現しなかった。
 第二の特徴は、五科に統合したことである。すなわち、国民科(修身、国語、歴史、地理)、理数科(算数、理科)、体錬科(体操、武道)、芸能科(図画、手工、習字)、実業科(農業、工業、商業、水産業)の五科に統合したが、教科書は従来の分科のままなので形式的な統合に過ぎなかった。内容的には、国語科の中に「話方」という分野を加えたこと、四年生で週一時間の郷土観察を入れたこと、体錬科に武道を加え、簡易な基礎動作を習得させることを目的に、柔剣道、ナギナタを課したことであろう。なお新しい教育思想の一端を導入して、在来の細分化しすぎてナマの生活を失った教育に対し、周到な準備の下に行なえば、未分化時代の小学一、二年では綜合教授方式をとり入れてもよいことになった。
 しかし、終極のねらいは、皇国の道に則って普通教育を実施し、皇国民としての基礎的錬成をなすことにあったことはいうまでもない。こうした観点からすると、五科統合の真のねらいは「国民科」に願いをこめた改定であったといえよう。
 昭和十八年(一九四三)には艦載機発進の東京空襲があったが、飯沼川上空を低空飛行で東都へ侵入したものであった。
 十九年六月には大都市学童の集団疎開が実施され、八月に東京都吾嬬第二国民学校児童二八〇名が、住吉屋・釜仙支店・石下館に集団疎開した。
 翌二十年三月十日には東京に大空襲があったが、これに先立ち二月二十六日には、夕刻群馬県太田の軍事工場爆撃の帰途、グラマン戦闘機が石下駅附近に爆弾三個を投下し、死亡者一名を出した。七月二十八日には吉沼飛行場爆撃の後、P51戦闘機が石下国民学校を銃撃、さいわい死傷者はなかったが、旧石下小学校北校舎に多数の弾痕を残して飛び去った。
 十九年から二十年にかけては、空襲また空襲で授業もおちつかず、防空壕に逃げこむやら空襲警報が発令されると、大急ぎで防空ずきんで身を固め帰宅させるやらで大へんであった。夜は夜で厳しい燈火管制で、予習復習どころではなく、きびしい食糧事情下でおどろおどろの生活であった。校庭は、その一部を残し掘り起し、さつまを植え、あわやひえを作り、食糧増産の一翼を担うなど、まさに非常事態であった。