終戦哀話

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昭和二十年(一九四五)八月十五日、敗戦を告げる天皇の放送があった翌々日の朝、飯沼村巡査駐在所の玄関の戸がいつになく開くのが遅く、幼児の泣き声に気づいた隣の人が、不審を覚えて、近隣の二、三の人に呼びかけ、戸をこじあけてはいってみると、正装した家族七人が並んで縊死をとげており、二歳になる女の子が父親のなきがらの下で泣いていた。石岡出身の久保田京巡査、夫人、下妻高等女学校在学の長女、下妻中学校在学の長男、飯沼小学校在学中の二男、三男と未就学の四男、それに泣き叫ぶ幼女をみては、ただ驚きとあわれさで呆然とした。
 家の中は整然としていた。そして上司、村の理事者、学校、親戚あてに幾通かの遺書があった。遺書には、敗戦により、米英等諸国の軍隊が進駐し、それら敵国の圧政下には、日本人として生きるにしのびないとする思想を中心に、世話になった人々に対する丁重なお礼の言葉が述べられていた。ツネ子夫人が書かれたと思われる、真向いの水生寺住職夫人にあてた遺書には、いろいろ世話になったお礼の言葉を述べた後、遺体の仕末を依頼したと思われることばを含め、次のような文面を残した。
 
  御厄介デモ後ハヨロシク願ヒマス。軽少デスガ金二拾円御子様ノ小使(ママ)ニシテ下サイ、尚近所ノ子供
  等ニ厄介ニナリマシタガ御礼モ出来マセンカラ、金二十円封シテ置キマスカラ奥様ヨリ適当ニ分ケテヤッ
  テ下サイ。
                                         久保田ツネ
 
 子沢山の母親らしいゆき届いた遺書であった。
 当時の知見の人々の意見を総合して考えてみると、敗戦放送のあった十五日に意志決定して家族を説得したもののようである。十六日には、死出の旅路への万端の準備を終了している。すなわち、長女は借用の本を友人に返却し、四年生になる男の子は、不要になった衣料切符を親しい友人に譲渡し、担任の先生にあいさつのために学校に出かけている。久保田巡査は、私物の自転車には送り先を明記した荷札をつけておくという周到さであり、夫人は夫人で前記の遺書にみるように、細部に至るまでの配慮をしている。
 驚愕と「よくも子供にまで―」という讃歎にも似た複雑な気持で、こもごも涙に咽ばせた、平和な農村における終戦哀話である。ひとり残された幼女は、いま県北の地で幸福な家庭生活を営んでいるというが、八月十五日には必ず旧地をおとずれて家族の冥福を祈っているという。
 もとの巡査駐在所の真向い、水生寺の入口にある「親子地蔵」は、昭和三十年に時の村長吉田嘉右衛門、助役松崎惣太郎等が発起人となって、久保田一族の慰霊のため建てられたもので、いつも供花と香煙が絶えない。