一二、三歳のころ江戸に出て、転々とした生活をおくるうち、上野山下の鰻屋佐川の養子となったこともあったが、維新の動乱に際会し、ついに兵火にかかり、居を根岸にうつし、鈴木鵞古に従って画工となり、後一家をなすに至った。諸国を漫遊して自然を写し、淡泊瀟洒な作風が世人に愛好された。
これより先、大沼枕山、中根半嶺、和田蹊斉、小室樵山と交友を深め、詩、書をよくしたが、最も史話に長じていたといわれている。ひととなりは極めて純朴、粗服で飾ることなく、一見野翁のようであったという。
Ⅶ-11図 波山の画(服部清氏蔵)
しかし、一面硬骨の面もあり、明治四年(一八七一)断髪の令が出ると、浅田宗伯(医師)、大沼枕山(漢詩人)、榊原健吉(剣豪)、芳野世経(政客)らと、結髪同盟を起したこともあるというが、晩年に至っては剃髪した。
明治二十七年十月十日没し、駒込光源寺に葬られた。法名は徳水院仁誉波山居士。碑名には自筆の「波山山人墓」と刻されてある。波山の号は、幼時から親しく眺めくらした筑波山の容姿忘れ難くつけた号であろう。
『日本人名大事典(5)』(平凡社版)に名を残す郷土の誇るべき画人の一人であろう。