明治の俳壇とその後

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石下地方の俳壇は、文久三年(一八六三)馬場の秋葉雪窓の死去によって衰微したが、その後は秋葉霞丘等が後を継いでいた。霞丘は雪窓の養子で、新治郡上曽村(現八郷町)出身で、名は孝、竹堂と号して漢詩もよくしたが、俳号を霞丘と称し、明治二十五年(一八九二)六三歳で亡くなっている。
 『友琴処霞丘句集』は、明治九年から二十六年までの霞丘句集であるが、次のような句がある。
 
    かれ芝もけふるはかりぞ寒の雨
    其まゝに終眠りけりかやの月
    日最中や落ち葉の音も夢こヽち
    里人の皆ひまらしきあつさ哉
    見世先のはなしはもてゝ夏の月
    呼かけて待つうら口や蕗のとう
    春遅き庭に気なりの掃除哉
    もの好に野風呂もたてる日永哉
 
 霞丘は病気がちの文学愛好者であったが、その境涯そのままのおおらかな俳風であった。
 そのころ、向石下法輪寺には、俳号を桃園と称した俳僧中川智秀がいて、霞丘とはひんぱんに往来していたらしい。桃園はまた俳句宗匠としても活発に活動していたらしく、晩年豊田の長楽寺に隠居してからは、かなり精力的に指導していたようで、同寺には、明治三十九年(一九〇六)二月、門弟達によって建立された句碑がある。
 
    旅能(の)荷耳(に)ひさご盤(は)加路幾(かろき)浮世哉(かな)  (表)
                  七十三叟  桃園
 
 裏面には、豊田、石下、岡田地区を中心に上郷地区にも及ぶ各層の俳人五〇有余の人達の名が刻されている。幹事として、荒川又五郎、荒川玄周、吉原謙山、斉藤道栄、荻野淡我の名が挙げられている。
 明治二十五年(一八九二)水海道の漢学者秋葉桂園八十賀の際の句として残るものに次のような句がある。
 
    かる/\と着こなす秋の袷かな     桃園
    秋しらぬはかり桂の園ふとり      淡我
    外国の人も仰かん秋の月        豊水
                                     (富村登「絹紅詩史」より)
 
 淡我は荻野酉之助、豊水は鈴木滝太郎である。
 明治三十年(一八九七)四月、水海道で月々一冊ずつ出していた俳誌『さゝ濃』六月句集には、岡田の居山、静波、桃園、下山、石下の淡我・静子(安井東三郎)、豊水、東哉(飯塚伊兵衛)の名がみえる(前掲書)。
 なお、当地方の俳諧の層の厚さを物語る例として、各地の墓地に数々の辞世の句があることをあげなくてはなるまい。
 大房東弘寺の荻野茂家の墓所にある荻野得翁の碑の裏面には次のような句がある。
 
    月宇都寿奈許里乃(うつすなこりの)蓮のこぼれ水
 
 小保川中山善一郎家の墓地には
 
    苦遠(を)須(す)てて由久(ゆく)や安乃(あの)世へ冬古母里(こもり)  梅雨
 
の句があるが、辞世の句としては最高のものであろう。透徹した死生観の厳粛さに心打たれる句である。
 
    仮の世遠(を)身は風なりの柳可南(かな)
 
 これは小保川光明院にある飯島弥三郎の句。
 
    行先の心落葉耳(に)ま可(か)せけり   忠翁
    者連(はれ)やかな可留(かる)る水能(の)余念なき   努ひ
 
 これは向石下増田達美家墓地にあるもの。夫婦の辞世の句であろうか。両句とも人生達観の香り高い辞世の句である。
 
    枯るる音を枕の友や幾里幾里(きりきり)す
 
 これは古間木新田稲葉俊家の墓地にある句。
 西福寺境内には次のような句碑もある。
 
    落ちる日乃(の)可(か)たへ消えけり御忌の鐘   冨田
 
 大正六年(一九一七)二月には、「石下さくら会」という俳句会が誕生した。創始者は新石下の開業医軍地医師の実兄軍地護之(森雪)で、二〇数名の会員で結成された。森雪没後は、生井楽彩が引き継ぎ、会名を「石下不孤会」と改めた。のち、楽彩の子生井勝太郎(松南)が運営の責任者となって活動を続けた。
 
       寒念仏  生井楽彩
    生きすぎて後生大事に寒念仏
    念ずれば氷もぬくし寒念仏
    弥陀の徳慕ふて終る寒念仏
                                       (「文化茨城」から)
 
 「不孤会」の指導者は沓掛の張替去春でその活動は戦時中も続いた。主なる会員は、楽彩、松南、栗原湖月、石山凡水、笠倉秀月・荒井紫峰、小林新村、中川峰生、藤沢晴峰、坂本沙人、片野一壺、関井天外、添野絹陽らである。