市井の芸術家荻野酉之助

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荻野酉之助(一八四六~一九二九)は、父作左衛門母多賀の長男として嘉永二年三月上石下に生れた。
 酉之助は俳句短歌もよく、また書をよくし彫刻にも手を染め描画にも巧であった。
 幼時から画を好み、やや長じて画家になることを志し、和紙を綴じた写生帳と筆墨を携えて、県内はもちろん、各地に遊び、多数の風景画を中心とした画帖を残している。
 

Ⅶ-18図 写生帖から(飯村芳雄氏蔵)

 後年には仏画を志し多数の仏画を残しているが、その落款に「明治廿三年七月一日発願日課之印」という自刻の印があるところをみると、発願して毎日一幅の仏画を描いたものらしい。
 画家志望の放浪の旅から自家におちついてからは、自家業に精を出す傍ら、地域の発展にも大いに活躍した。
 明治二十六年(一八九三)には、石下町外六か村が結城郡織物丸石組合を設立した際には初代組合長に推されている。組合員三〇〇名織子女子一二〇〇人に及ぶ大きな組合であった。
 明治三十年(一八九七)九月一日、石下村に町制が施行された際には、初代町長に就任している。
 また、明治三十二年、耕地整理法が成立した際県下に先がけて着手し、一応の成功を示した石下町外六か村耕地整理組合の首唱者は、当時県会議員であった新井球三郎と橋本栄作、荻野酉之助の三氏であった。
 しかし絵筆を持つことを忘れたわけではない。前述した通り早くから仏画に興味を持ち日課として仏画を描き、菩提寺の本堂改築に際しては、本堂の格天井に数々の絵を描き、その他枚挙に暇ない程の多くの画を残した。耕地整理日誌に何げなく描いた蛙の絵などにも枯淡の味わい深い趣があり、終生絵筆を離すことがなかった。
 氏はまた彫刻にも並々ならぬ才能を示し、木、あるいは竹の節などに印刻を施したり、時に大きな彫刻にも手をそめた。現在荻野家にある木彫は、妻の七回忌に際し、供養のために彫りあげた、自然木利用の仏像である。
 桃園宗匠の門人として俳句を学び、また短歌を作り、書に親しみ、画筆を離さず、自家業にはげみ、しかも各種の公職に挺身した荻野酉之助はたぐい稀な才能に恵まれた市井に生きた芸術家であったというべきだろう。