新しい教育の出発

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昭和二十一年一月一日に、天皇の「人間宣言」と呼ばれる詔書が出された。
 
  朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リ結バレ 単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ズル
  モノニ非ズ 天皇ヲ以テ 現御神トシ 且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ 延テ世界ヲ支
  配スベキ運命ヲ有スルノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ
 
 この詔書に対し、マッカーサー総司令は、「天皇はその詔書の声明により、日本の民主化に指導的役割を果そうとしている」もので、「非常に欣快である」と述べたという。
 この年四月には、アメリカ国務省から、ストッダート博士を団長とする教育使節団二七名が、教育改革を進めるために来日、一箇月滞在して、文部省による中央集権的教育の廃止、地域住民の選出する新しい教育行政機関の設立、男女共学、九年の義務教育制などの内容を骨子とする使節団報告書を提出して帰国した。戦後の教育改革は、この報告書を基軸にして行なわれることになったが、基本的には民主主義を原理とする教育の建設にあった。建設作業は、二十一年八月教育刷新委員会が結成され九月に活動を開始した。会長は安倍能成、副会長は南原繁であった。
 かくして、一九四七年三月三十一日を以て「教育基本法」「学校教育法」が公布され、四月一日から出発した。
 戦後教育の理念を示す「教育基本法」の前文及び第一条は次のようなものである。
 
  われらはさきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献
  しようとする決意を示した。この理想の実現は根本において教育の力にまつべきものである。われわれは
  個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆた
  かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目
  的を明示して新しい日本の教育の基本を確立するためにこの法律を制定する。
  第一条(教育の目的)
  教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を
  たっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなけれ
  ばならない。
 
 この新しい教育二法は、アメリカ教育使節団報告書の精神、天皇の人間宣言、同年五月三日発布の憲法の精神に則って制定された。
 学校体系は、六・三・三・四制が採用された。すなわち小学校六年、中学校三年、高等学校三年、大学四年とする単純化された体系となった。
 国民学校は小学校と改称され、国民学校初等科は小学校、高等科は中学校として発足したが、二十二年三月卒業の高等科卒業者は、一応義務制からはずされ、希望者だけ中学三年に編入された。高校でも大学でも若干の同様のつまずきがあった。
 改革の一つの特徴は九か年義務制となったことであろう。国民学校令公布の際のかけ声だけの義務教育延長がここに実現されたわけであるが、このことはまた進学への道も大きく開かれることになり、経済の成長安定と共に高校への進学率は急上昇することになる。全体系を通じて男女共学になったこともまた大きな特徴の一つであった。
 内容的には、修身、歴史、地理のかわりに「社会科」が誕生し、昭和二十二年(一九四七)九月から授業が開始された。
 教科書採択については、総司令部としては全国一律の国定教科書の制度を廃止、民間で編集したものの中から、各学校の事情に即した教科書を自由に採択する民主的な教育政策をとるべきだとの方針が決定していた。しかし、急激には間にあわないので、とりあえず国で作って供給することになった。教科書採択が、民間出版、検定、展示会開催、採択という方式で、現場教師が手にとって閲覧して採用するようになったのは昭和二十五年(一九五〇)頃からである。はじめ、地方教育委員会が誕生した時は、各市町村単位に採択したが、のち数町村連合の地区単位で採択したりの変遷を経て、のちに府県単位の採択となった。
 新しい教育出発に際し、最も深刻だったのは、新制中学校の校舎と小学校の教師の問題であった。地域によっては、小学校だけで卒業する児童が四〇%もいたものが、全員進級して、しかも三年まであるのだから教室の不足は当然である。当時の町村の理事者の労苦には並々ならぬものがあった。新校舎建設までの便法として、各地にあった兵舎の払い下げ、作業場や青年訓練所使用の室の改築、あるいは神社拝殿の利用、小学校特別教室の改造等の苦肉の操作で苦境を克服する外はなかった。中学校が新校舎を建設して独立するのは概ね昭和二十五年以降のことであった。教師問題も深刻で、絶対数が不足しているのだから中学教師の場合ももちろんだが、小学校の場合が最もひどかった。二十二年四月十五日でほぼ国民学校教師の小中への分割割当は完了したのだが、有資格者の多くは中学校へ走るものが多かったので、小学校に残留の有資格者は極めて少数で、ある小学校などは、十数名の職員中、有資格者は校長を除き、男女各一名に過ぎなかったという学校さえあった。また、自転車の棒タイヤさえ手にはいらなかった時代には、徒歩通勤以外に方法はないから、石下、玉地区のように最寄に駅を持つような所はまずまずにしても、交通不便の所は眼もあてられなかった。やむなく二部授業で糊塗する学校さえあった。
 新制中学統合の気運に乗って、石下・豊田・玉の三中学校が統合になったのは昭和四十年(一九六五)、岡田中、飯沼中が統合になったのは四十三年のことであった。
 

Ⅶ-19図 戦後まもなくの中学校(菊地義男氏蔵)


Ⅶ-20図 阿倍神社(豊田中学校仮校舎)

 
教育委員会
 地域の教育行政に関し、地域住民が関与するという制度は、戦前においてもなかったわけではない。明治十二年(一八七九)公布の「教育令」に学務委員制があり、しかも自由民権運動の影響か、公選制さえとっていた。ところがこの自由教育令の結果が悪かったので、翌年の改訂令では県令(知事)の任命制にかわった。当時は学校運営の経費はすべて地域住民の負担であったので、学務委員の任務も権限にもかなり重いものがあった。後、中央集権的官僚行政が進むにつれ、学務委員の任務は縮小され、予算編成の際財務的事項について助言する程度になった。そうした意味では戦後の教育委員会は性格がまるで違う。
 要するに中央集権的教育行政の排除と地域住民の教育に関する積極的参加ということがそのねらいであった。とくに教育使節団の要請では教育行政の一般行政からの独立が要望されていた。かくして昭和二十三年(一九四八)法律第一七〇号として教育委員会法が公布されたのである。
 その骨子とするところは、教育委員を公選にすること、委員の任期は四年とし五人とすること、文部省は上位機関でなく指導助言をすること、教育財政の確立をはかること、委員会に専任教育長を置くこと等で、昭和二十七年(一九二一)十一月一日を以て各町村委員会が発足した。十月の選挙による第一回公選教育委員は次のとおりであった。
 
  飯沼村  篠崎憲三 吉田嘉右衛門 渡辺徳之助 浦和盛一
  岡田村  中島憲 浅野きい 田中節子 松崎仁一郎
  石下町  茂田松岳 石塚栄三郎 山本経蔵 生井徳一
  豊田村  磯由江 助川斉次 荒川まさ 山口喜一郎
  玉 村  相原錦四郎 小林喜一郎 渡辺三郎 石野正二郎
 
 この委員陣に、急きょ教育長講習を受講してきた各地域の小中学校長の一人が加わって委員会を構成した。
 昭和二十九年(一九五四)市町村合併法により石下町、豊田村、玉村(分村)、岡田村、飯沼村の一町四か村が合併すると、新しい石下町教育委員会が誕生した。第一次教育委員会の陣容は次の通りであった。
 
  教育委員長 斉藤久吾
  教育長   増田寿太郎
  委員    黒沢斉喜 倉田彦兵衛 秋葉美喜
 
 ついで昭和三十一年(一九五六)六月三十日、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(新法)が公布されると、内容は大きく変った。
 旧法との主なる相違点は、公選制が、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命する任命制になったこと、人事権の県教育委員会への移譲、委員は三人でもよいこと、市町村では専任教育長をおかず、県教育委員会の承認を得て、委員の中から任命してもよいことなどであった。その他、文部大臣と教育委員会の間の縦の上下関係を明らかにしたこと、教育委員会と地方公共団体の長との横の関係を緊密にし、地方教育行財政の総合的傾向を強化し、自治体の長は委員会の意見を聴取すればよいことになった。しかし新法は、総合的には民主化路線から後退したことは事実である。