県立石下高等学校の誕生

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県立石下高等学校の前身は、昭和四十年(一九六五)四月、結城郡千代川村五箇に創立された東京音楽学院筑波高等学校であった。
 昭和四十二年、石下、玉、豊田の三中学校統合の新校舎竣工にあたり、東京音楽学院筑波高等学校は、旧石下中学校跡に、私立石下高等学校として進出してきた。
 それが石下町立石下高等学校として石下町に移管されたのは、昭和四十六年(一九七一)三月のことで、町立石下高等学校として発足したのは同年五月一日のことであり、四十八年七月には永久校舎も竣工した。この時点で県移管の運動が開始された。
 県移管になるまでの経緯の概要は、次の通りである。
 
  四十八年十一月十二日県移管の請願陳情書を県執行部及び県議会に提出
  四十九年五月十日県議会文教治安委員石下高校視察
  四十九年五月十五日県移管陳情 町長、町会議員
六月十三日再陳情
六月十八日石下高校PTA一〇〇名、県知事へ移管陳情
九月二十七日県議会定例会で石下高校の県移管請願を採択
  五十年一月三十一日県議会文教治安委員 石下高校現地調査
八月六日県教育庁幹部職員現地調査
十月二十一日県教育庁教育次長ら石下高校施設視察
  五十一年三月二十七日県移管に決定


 
 かくして五十一年(一九七六)四月一日県立石下高等学校として発足したのである。
 石下高校、同PTA、同後援会、同窓会では、県移管を祝って、四月十七日同校体育館で県移管祝賀式を行なった。式典終了後、横山校長、横島PTA会長、関井後援会長、茂呂生徒会長らを先頭に、関係者一五〇〇人で役場まで祝賀パレードを行なった。役場前では、感謝式典を行ない、町長、助役、収入役、教育長、町会議長、教育民生委員長らに多年にわたる労苦に感謝して、石下高校生徒代表から花束の贈呈が行なわれた。
 昭和六十年(一九八五)現在、生徒数七二九名、学級数一八、職員数四二名のゆるぎない高校として発展をとげている。
 顧みれば、多事多難な歴史を抱えた高校であった。昭和五十年度の石下高校に関わる予算は二億一四五八万二〇〇〇円で、石下町予算の約五分の一に相当した。さほど大きくもない町が公立高校を抱えた町当局者、議員達の物心両面にわたる労苦には並々ならぬものがあったと思われるが、地域住民の教育優先の隠然たる思想が、その底流にあった成果であったとみることもできよう。
 

Ⅶ-21図 県移管感謝式典(役場前道路)