名随筆家野村喜一郎

978 ~ 979 / 1133ページ
親鸞聖人の高弟真仏房の後裔野村喜一郎は、石下郵便局長として活躍する傍ら、文学にも興味を持ち、父親同士がじっこんの間柄であったという関係もあって長塚節の顕彰にも力をいたし、また名随筆家でもあった。水海道の志富靫負主宰の新聞『文化茨城』には、昭和二十七年(一九五二)頃から随筆を寄せ好評を博した。そして約一〇年間の作を集録して、元三大師安楽寺の画僧落合寛茂僧正の表紙絵で、第一集『へそ』を出版したのは昭和三十七年四月であった。ついで昭和四十五年一月第二集「続へそ」を刊行した。二十七年一月の「文化茨城」に掲載の第一作は次のようなものである。
 
      ボクとサケ
   いつぞや、毎日の放談へ脳溢血大いに飲むべしと書いたら、未知の人から、誠に意を強うしたとたより
  を貰って気をよくしているが、考えると、昔始めて酔払ってあばれて賞められたことがあった。
   大正の初め頃、甲種合格で、目出度く近衛兵で入営、一年かかって星一つをもらい、ひどくずべらを発
  揮して居たが、其年の軍旗祭に始めてメンコで二杯やらかし、酔払って、無礼講を幸い、時の中隊長をか
  ついで投飛し(此人陸大出で威張っていたが、いつも香水をプンプンさせていた)一諸に来た大隊長(コノ
  人後に中将になった六尺あまりの豪傑)に「貴様元気があってよろしい」と賞められ、それから大隊長宅
  で将校達の宴がある時、酌に来いと言われて外出をもらい、お酌をしながら将校達の景気のいい話をきい
  て可愛がられたものだ。軍人華やかなりし頃だから、大隊長と一等卒では、マッカーサー元帥と浮浪児程
  の差があったのだから威張ったものだ。
   それ迄は余り飲んだ事がない酒なのに、酔払ってうまいことになったのだから、酒とは初めてから切っ
  ても切れぬ縁があったように思う。この酒が手伝って中風になり、手足が不自由な今でも止められない許
  りか、ますます酒くせが悪くなる様だ。我乍らどうにかならぬものかと思い乍ら飲んでいる情ない酒の虫
  だ。