児童文化

982 ~ 982 / 1133ページ
大正七年(一九一八)七月、夏口漱石の門弟鈴木三重吉が、児童文学雑誌「赤い鳥」を創刊した。常総沿線の文学愛好の青年教師達が之を支援した。大宝の中山省三郎、とば之江の粟野柳太郎・吉田三郎、中結城の佐藤博、水海道の落合隆一、五箇の羽田松雄、このグループに石下小の栗原真平がいた。栗原は持前の新鮮な感覚とすばらしい才能を発揮して、作文の指導に、児童自由詩の指導に、当時擡頭したばかりの児童自由画指導に情熱を傾け「赤い鳥」の誌面をにぎわせた。
 

Ⅶ-24図『赤い鳥』に載った図画

 そうした伝統は戦後いち早く復活し、昭和二十二年(一九四七)二月には、石下中心に児童文芸誌「野火」を発刊し、のち、鑑賞教材として教室で学習できるようタブロイド版にして五六号まで続いた。
 それらをさらに助長させたのは、二十二年十月に開かれた石下復興祭、続いて開かれ今日まで続いている石下文化祭であろう。石下文化祭は昭和二十四年、石下商工会と小中学校中心に、民間の門井真(短歌)、鈴木春邨(書道)、生井松南(俳句)等の積極的支援で生れたものである。石下には、千代川と合同して作られている年刊児童文集があり、昭和六十年に一八号を数えた。