「(表紙)弘化四歳
鴻山実録
未六月写之 」
鴻野山村実録
下総国岡田郡鴻野山村往古之記録ヲ尋るに仁安二年平清盛卿御治世ニ相成源氏方ハ平氏ニ随ひ忠義なるものは離散とて国々え身を隠し其流レ江の山村に止り君父の忌日を追悼し終に猟師ニ相成魚鳥を取りて世を送り御公儀様え運上とのみニて御支配誰何々守様抔とハ乱世之時殊ニは六七百年も以前ニ候得ハ相分り不申候其頃ハ当村ハ魚猟稼ニて有之候所年を経ついに山を開き耕地を拵ひ余業とす元暦年中に至りて人数相増文治元年源平の戦ひ終に源氏之御代となり建久四年癸丑四月大将軍源頼朝卿様下野国那須郡那須野原御狩ニ付村中十五以上六十以下之者は不残諸役ニ罷出相勤候ニ付三ケ年之間御年貢御免除ニ被成下依之武運長久之ため菩提所皆葉村無量院憲光様ニ右御恩沢之事を御頼み石碑建立仕置候処其後石碑賊徒のために打破られ今ハ文字不分相成候傍に大古木の榎あり昔ハ石碑今ハ五ツの石のミ有之候寛永七午年伊奈半十郎様御検地之節五輪と字を御記し被下候又其後安永二巳年古木の榎落雷のために焼火ニおよび猶又秋葉治左衛門榎植替先年より鎮守同様村中拝礼仕候
一 応永廿七年結城是ゟ紙半まい余虫喰ニて不相分候年四月十六日結城落城より長録二年迄十七年之此処少々
不相知候猟之運上ニ而村柄立直り寛正元年下妻領家数七軒田畑五町余此処紙腐切二下り計次第ニ乱国ニ落入
り人少之村方加勢諸役等ニ度々引連候故上なく困窮仕候
一 文明十五年多賀屋家植卿様飯瀦之此処三下り不相分候
一 文廿壱年四月廿一日結城御陣代菅沼隠岐守此処壱枚半余不相分候年飯瀦に高廿三四丈計りのあやしき化も
の時々光り出女子供是を見るものハ病気を起し終に死去すと云同年十月三日大雷ニて大水山崩れ所々ニて人
死多シと云三四年種々の災あり元亀二此処不分明
一 天正元年関宿城主築田氏家卿大生此処不相分江野山家植卿様再建立の堂え火を付ケ弓田城主深谷喜藤頭と
相図を致し赤松将軍を攻落し氏家弟氏綱城に替りて謀り此処半下り不相分候修理太夫重経三万余騎ニて攻る
といへとも城中にハ弓田の家臣小田伝一郎国吉の智謀に依てさすか強勇の下妻勢皆謀を失ひ此処半枚不相分
候と喜藤殿相図之時当村観世音焼き亡ぼされて其地を取替乗に此処二枚計り失ひ候棒七本鎗二半下り不相分
候九月豊田逆賊退治とて落合対馬先祖吉原杢之助秋葉豊此処五字不相分織部之助百余人ニて罷成出陣致し打
死者織部之助外廿人余と申伝へ候
一 同六年頃迄ハ江の山に江の字書き其後鵠の字を書て鵠野山と申候
一 下総国岡田郡下妻領豊田庄鴻野山村之儀ハ数度之開発と相見へ天正十三年乙酉之頃ハ農家七軒魚猟稼之者
十軒程相立今開発夫ゟ民家次第ニ相増其上飯瀦魚猟等の稼方仕寛永七午年迄四拾六ケ年之間ハ御年貢永壱貫
八百文魚猟運上永八百文御領主様へ御上納仕候得共御割付御目録等無御座候ゆへ御領主之御名前又は反別等
ニ致し候迄聢と相分り不申且老人之説に御聖代ニ相成候ゆへ古来書物類御公儀様へ御差出候儀一切無御座候
と申伝へ候
鴻野山村之事
一 江戸御天下ニ不相成以前ハ下妻領多賀屋大部様御知行所九十六年
一 伊奈備前守様御代官ニ相渡り九十五年御手代ハ飛田吉左衛門殿
一 中根七蔵様御代官所 八十年
一 松平千福様御代官所 七十三四年
一 伊奈半十郎様御代官所 六十八九年
一 天羽七左衛門様 六十壱年相渡り
一 土井大炊守様 五十九年百年迄
是ハ元禄四未年ゟ以前之事ニ御座候同四未年ゟ先五十九年ハ大炊守様御領分ニ相成候訳ニ御座候
一 土井能登守様三十四年戌年迄
正徳元年迄ニ御座候
一 建久四年癸丑四月源頼朝卿下野国那須野ニ狩す此時我始祖吉原対馬国安近郷百姓十五以上六十以下之人数
を集メ那須野原ニ罷出候我氏ハ吉原ト云落合ト云秋庭ト云秋葉ト云
一 寛永七年午八月七日御代官伊奈半十郎様再御検地ニ相成古来開発之田畑屋敷不残御縄入ニ相成石高弐百八
十三石七斗五升六合反別三拾九町七反四畝廿四歩御検地帳五冊其後天和二戌年万年長十郎様近山六左衛門様
御検地ニて弐百弐拾六石弐斗六升七合反別三拾七町四反弐畝廿六歩御検地帳二冊享保十四筧播磨守様御検地
ニて高五拾五石九斗九升六合同所新田御高入ニ相成此反別拾六町三反八畝歩御検地帳一冊都合三度之御検地
ニて御水帳八冊杢之助頂戴罷在候
一 天和年中迄ハ下総国豊田郡鴻野山村と有之候同三年戌ゟ岡田郡と相成候又岡田郡と号シ候事如何なる故か
は相知不申候然共延喜式ニ云延喜四年十二月十日岡田郡を改て豊田郡となす又古に反(カイ)りて岡田郡と相
成候其故相知不申候且当村を江野山・鵠野山・鴻野山の三説あり記録を見るに鴻野山村の儀ハ南西北三方湖
水東に細く往来のみにて瓢(フクベ)の形(ナリ)に似たり土地の高さ林の高きをさして江(エ)の山と云中古の
頃訓ヲ音に読て江(カヲ)野山村と云事何の年号ノ頃迄かは相知れ不申候鵠野山説ハ老人の諺(コトハザ)に大
鳥鴻雁の類(タグヒ)昼ハ飯瀦ニ出て夜ハ当村の山林に塒する故に人名つけて鵠野山と云其鵠の字を書事いか
が蓋シ古来大鳥をさして鵠と云此故に鵠野山と云ふなり然共鵠ハカツ音にしてカウノ音無之ニよつて其後孟
子所謂鴻雁麋鹿の鴻を取りて鴻野山と云又一説あり鴻の字ハ落合対馬・秋葉豊後開発傍に大柳有之此大柳え
鴻の鳥巣を作る由緒をもつて鴻野山と云又鴻の巣と云土地の字(アザ)あり今に至りて鴻の鳥巣を営(クウ)に
依ての故なりと申伝へ候又云鴻は大なるゆへに鴻の鳥計りさして鴻とするに非づ前に云鵠を鴻となすの義也
且当村のもの鴻の鳥の肉を喰ふ事を堅ク禁ず然ルに先年一男子他村に出て鴻の肉汁を喰ふて忽然として一夜
の内に眉髪脱落ニ及び頭ハ薬鑵の如くなると云ふて鴻肉を喰ふ事を深く禁じ候今において人人申伝へ候間難
廃(ガタシハイシ)古語曰十手所視其巌乎
一 寛文元丑[寛永十酉]年ゟ天和二戌年迄廿弐年[四十九年]之間土井大炊守様御領分ニて同三亥年万年長十郎
様・近山六左衛門様御検地貞享元年ゟ享保六丑年迄三十七ケ年御代官平岡治郎左衛門様御支配并榊原内匠様・
小辰谷三左衛門様・山本亀之丞様御知行所相混し有之候然ル処湖水を飯瀦と申事何連の頃より申唱ひ候哉不
分明ニ候
一 御当代ニ移リ段々村柄立直り窪地入会之場所は他村之もの迄藻草并魚猟迄一押に取揚田畑諸事の助と相成
当村ハ第一魚猟の稼方大半尚又耕地に出精仕候故土性元来瘦(ヤセ)地なれ共魚猟藻草の力を以培(ツチカヘ)
候得は肥土と相成歳に豊凶有之候得共当村之義ハ凶年と申候得共他村の豊年よりも升立有之収納村柄頗ル栄
曜ニ及ビ他村え可出子供を以分家致させ民の産業依之周の御代ニ比シテ益繁栄に相成作付之地所不足ニ相成
ゆへ闢(ヒラキ)レ草萊手遠の場所も不厭忽然と致開発享保十四酉年御代官小出嘉兵衛様御支配之節石
高五拾五石九斗六合同十五戌年御高入ニ相成是を新開成の高入と号都合三度之御検地ニて石高五百六拾六石
壱升九合御水帳八冊頂戴罷在其頃宗門人別帳御書上ケニは家数八拾弐軒人別四百八拾三人作馬七拾疋大船三
拾艘猟船八拾五艘此節繁栄ニ有之候処享保年中ニ至りて飯沼新田御開発ニて魚猟ハ勿論藻草耕方ニ相成候も
の一切無之一面ニ乾上り候場所ハ荒れ砂と相成高台切広候入用多分之雑費相嵩衰微(スイビ)破滅之基と相成
田畑凡徳薄くれて困窮ニ落入り天下泰平と相成候ゟ右四拾五年之間万民鼓腹仕候得共宝暦年中ゟ潰(ツブレ)
百姓出来田畑手余荒地年毎ニ相重り是ヲ本免ニて弁納仕置候ゆへ村方必至と相弱り明和三戌年御代官小林孫
四郎様御支配之節荒畑永トテ年貢を御引被成下候得共弁納嵩候故困窮之上猶又困窮ニ落入り嫁聟呉れ候もの
も無御座相成悲乎世嗣絶(ヨツキタヘ)て潰となり是を見るニ付行末無頼妻子を引連レ立逃候心懸計ニて猶々
弁納も次第ニ相増其上凶年引続候て種夫食度々御公儀様え御拝借願仕候得とも御割賦ニてハ中々間に合不申
其乏(トボシ)き事今日ハ喰共明日は食事無之候始末ゆえ他え出て賃日雇稼仕家内の過合もやう□□露命繫ぎ
居り朝夕の烟り薄く右家数八拾弐軒之内三軒余潰ニおよび又田畑八拾町之内三十八町余荒地ニ相成一村ニ物
持等も無之様一連ニ困窮仕已ニ不残退転ニも可及之処やうやう忍居り安永七戌年御代官辻六郎左衛門様御支
配相成此段度々嘆願仕候ニて年限起返被仰付御引永三度迄御救被成下寛政元酉年御代官菅沼安十郎様御支配
ニて右の始末不得止事相歎候得は御勘弁も被成下候得共中々以弱骨之百姓行立不申候同子年御代官守屋弥惣
右衛門様御支配之節御代官小出大助様御懸りニて御年貢諸拝借諸返納物未進夥敷相嵩有之候処不残永年賦ニ
被仰付其後同寅年御代官荻原弥五兵衛様御支配ニ相成且亦右之段奉願候処仁君早速御聞済荒地畑并村柄迄御
見分之上被仰付候起返り之場所年限ニ相成候ても一向不起返段逸々御糺有之候得共人少之村方殊ニは餓死に
も可及躰之弱百姓なれハ迚も歎敷事ニて元に返り候事不行届段御賢察被成下残荒畑反別一円に木立成ニ相成
永弐拾文ニ御取下ケ被仰付其上本免納之分御下ケ候被成下置如斯の御救を蒙り漸く相扶り村中蘇生仕安堵の
思ひをなし是則継絶世挙廃国治乱持危御仁君之御恩沢の厚き所也豈不仰哉其節御支配様ゟ百姓相慎之御教と
して農工商ちから竹(ダケ)と申書を御認メ被下置候同十二申年岸本武太夫様御支配ニ相成別段御廻村之時に
最寄村々を御呼出し男女子供ニ迄弁理早道の御教訓被仰渡愚昧も孝行の導(ミチビキ)に相成候其上御年貢之
義ハ三季ニ取立日限迄取極六月十日九月十日十二月十日無遅滞皆済可致然ル上は為取立出役は不差出候間畢
竟無等閑可相慎村方之勝手ニも可相成趣御利解被仰聞候依之右日限ニは無相違相納仕来候是則民ニ教を施シ
不能を導き給ふ御仁恵之厚恩也次ニ文化八未年御代官岸本武八様御支配ニ御引渡り野州藤岡ニ御陣屋御建立
仕万端御用向藤岡ニて相勤候委細之義ハ新田記録ニ詳也明和已来段々家数減少ニ相成僅ニ五拾軒ニ不足シテ
雖補之先前之難渋于今難免繁栄之時麁土も肥土ニ相成飛地手遠之場所も不残切開ニおよび御高入ニ相成候処
今更右之反別荒地相成尤減永御取米ニ相成候得共新高掛物ハ勿論高割ニ請候義ハ全ク弁納ニて山林入会畑付
田畑ハ自然と押埋是を田成畑と云反米三斗七升余上納罷在是後世之患ひ世の衰ひ不遠苦民家の跡作付候場所
も山林藪地と相成候百戦之床となりて田畑を喰荒し難防困窮のもの難届多分ニ喰荒され是村の破滅とは申な
から年の豊凶恩沢の厚薄にも可依然れとも云□云天命成所塞翁馬ニ而不足之件文
文化八年午八月記
弘化四未年六月上旬写秋葉又左衛門
新編和漢歴代帝王備考大成巻之九ニて記ス
慶長十乙巳年 江戸芝増上寺建之
元和八壬戌 家光公日光御社参
寛永元甲子 東叡山御建立
寛文二壬五月[朔日大地震五条橋落〇十月大隅国大地震寅三月六日ゟ同廿日迄日月如紅]
延宝癸丑九月廿一日改元延宝
天和元辛酉十月九日改元天和
天和四甲子二月廿一日改元貞享元年ニ成
元禄元戊辰九月晦日改元元禄
正徳元辛卯四月廿五日改元正徳
享保元丙申七月朔日改元享保
元文元丙辰五月七日改元元文
寛保元辛酉三月三日改元寛保
延享元甲子二月廿八日改元延享
寛延元戊辰七月十八日改元寛延
宝暦元辛未十一月三日改元宝暦
明和元甲申六月十三日改元明和
安永元壬辰十一月廿五日改元安永
天明元辛丑二月十三日改元天明
寛政己酉二月三日改元寛政
(栗山新田 秋葉いゑ子文書)