《ケンブリッジ大学とラグビースピリッツ》


 日本ラグビー界は昨2005年9月に創始国イングランドの名門ケンブリッジ大学を迎えた。今を去る54年前の1953(昭和28)年秋の初来日から数えて10度目の来日である。日本の大学チームと3試合して帰っていったが、3戦ともすべて日本側の勝利という予想外の結果に終わった。日本の大学チームのレベルが高くなったのか、はたまたケンブリッジ大学の力が落ちたのか。この年度の対戦結果だけで安易に日英両サイド全体の評価はできないものの、ここで一ついえることは日英の間にあった格差の幅が確実に狭まっている、という点である。
 ケンブリッジ大学といえば、先に記したようにE.B.クラーク、田中銀之助は同大学出身で生粋のキャンタブだった。草創期のラグビー事情を伝える慶應義塾の六十、百年の2つの年史によると、ラグビーに関する塾生たちとの接触は主として田中銀之助が担当。猪熊隆三ら教え子の先達たちはその「田中コーチ」から技術以前のケンブリッジ仕込みのスピリッツを叩き込まれたという。
 田中銀之助が関東ラグビー蹴球協会(創設時代の名称)の機関誌に寄せた原稿に、みずからの思いというか、信念を綴っている。要旨を再録してみよう。
『ラグビーの精神に就いて』田中銀之助
 「顧みれば余の慶應義塾学生諸君とラグビーを始めて以来、殆ど四十年に垂(なんなん)とする星霜を閲せり。此間其進歩発展実に著しきものあり。今や該競技は全国に伝播し、其技術の進歩も大に見るべきものあり。然共(しかれども)其力に就て云はば、現在最良のチームを以てしても『ケンブリッジ』『オックスフォード』両大学に於ける一流コレッジ・チームに匹敵する程度のものにして、全大学チーム(ヴァーシティ・チーム=いわゆるブルー)に対しては聊か遜色あるものと思わざるべからず。是れ競技者素質の問題に非ずして、一流競技を眼の当り見る機会少なき事が其進歩上一大欠陥なりと信ず。
 次ぎに余は凡てのスポート特にラグビーに関し、其精神的の方面に対し敢て一言を試みんとするものなり。
 スポーツマンの精神とは、之を端的に言はば、醜法(きたなき)の勝ちよりも寧ろ堂々(きれい)の敗を選ぶに存す。
 儒道に於て重大視する礼楽の礼は、之れを通俗的に解釈すれば道徳概念を行為に移す時のヤリ方、即ち方法に外ならず。故に何事にも礼は欠く可からざるものなり。
 従てラグビーにも亦其礼なかる可からず。即ちゼントルマンリーに行動すること之なり。ゼントルマンライクに行動するには、競技者各自に於てゼントルマンとしての品位の保持尊重は何事に在りても最も肝要なるものにして、殊にラグビー若くは柔剣道の如き男性的強烈なる競技にありては、いやしくも其品位を低落せしむる言行の如きは常に之を慎しみ、俗に所謂『品の悪るき』動作は断乎として之れを排斥すべきものなりとの覚悟なかるべからず。品位品性の失墜は概ね頽廃堕落を招来するものなり。
 爾来我ラグビー競技をなす各位は此点を理解重視せられ、余の見聞する範囲に於いては、審判官に対し徒らに不平を鳴らし、或は些細なことに拘泥して妄(みだ)りに紛擾を来す等の事無かりしは、洵に余の欣快とする処なり。」(原文のまま)
 田中銀之助は1887(明治20)年、15歳で渡英し、パブリックスクール・リース校を経てケンブリッジ大学トリニティーホール・カレッジを終えて1896(明治29)年に帰国している。時に24歳。9年の長きにわたる留学生活ではあったが、後半のカレッジライフで身につけたラグビースピリッツを活字で具現したのが上記の一文である。
 現代の若いラガーマンたちがこの徹底した「田中イズム」をどのように受け止め、また評価するか興味のあるテーマといえるが、やはり明治時代にラグビーを志した塾生たちは、素直に田中銀之助のラグビー観を受け入れているようだ。もちろん、それにも濃淡はあったようだが、蹴球部第16代主将(大正7年度)塩川潤一は「三田の寄宿舎生活で理想派グループの強調するラグビースピリットを狂信的にたたき込まれた。スピリットの指導訓練は、起きてから寝るまで、教室に居る間を除き終始叩き込まれた」と往時を振り返って述懐している。
 塩川潤一のいう理想派の流れを手繰っていけば、正義のニックネームで下級生たちに畏怖の念を抱かせた櫛山次郎(1908=明治41年卒)という硬骨漢にたどり着く。アマチュアリズムの番人とまで評された田辺九万三をして「毎日となると随分窮屈であった」とまでいわせた「田中イズム」の信奉者。「しかしながら私たちはこれによって、ラグビーと精神の離るべからざることを深く心の中に練り込むことができた。而して爾来今日に到る迄ラグビーのプレイを論ずるもの必ず其の精神を併せ論ずるようになった」と付け加えている。田辺九万三は日本ラグビーフットボール協会(以後日本協会)の第2代会長だった。田中銀之助によって植付けられたケンブリッジのスピリッツは戦後の日本ラグビー界にも存在していたことがうかがえる。