《寄宿舎制度の恩恵》


 慶應義塾でなぜラグビーが定着していったのだろう。日本協会が1964(昭和39)年11月20日に出版した日本ラグビー史は、その条件として第1編Ⅱ慶應孤立時代の項で①学校だけが外国からの集団競技を受け入れる唯一の施設 ②慶應が持ち合わせた豊かな経費支弁の余裕──をあげたあと、3点目に寄宿舎の存在をあげている。「この条件こそ最優位に位するであろう。寄宿舎生活は、今日の“合宿”をたくまずして年中やっているようなもので、仲間を引き入れるにも、その脱落を防ぐにも非常に好都合な条件を備えていた」と。そこには部活動の運営、管理を経験した人物だけが知りうる指摘があり、また大学ラグビーOBの心にも通ずる思い出のひとつではないだろうか。
 慶應義塾の寄宿舎制度だが、その歴史は古い。塾祖福沢諭吉が1858(安政5)年に築地鉄砲州に蘭学の家塾を開いたときに定めた制度である。慶應義塾と改名してからもこの伝統は守り続けられ、ラグビー草創期の1900(明治33)年9月には三田山上に洋風の木造2階建て3棟(2棟の本舎と1棟の食堂など付属棟)からなる当時としては立派な建物が再建された。1階の自習室の部屋数は100室。1室の定員4人として400人を収容。2階の寝室は50室と階下の半分だったが、部屋の広さは逆に2倍と大きく、1部屋に8個のベッドが2列に並んでいたという。この計算でいくとキャパシティーは1000人。ちょっとしたコミュニティーといえるが、百年史によると入寮者数にはまだ余裕があったようだ。
 蹴球部のOB岡野豪夫は六十年史に、その寄宿舎入寮からラグビー生活が展開していった経緯を詳しく述べている。「塾の予科へ入学し、三田の寄宿舎に入ったのは明治40年の4月であった。4寮の62番という部屋で、室長の岡崎惣太郎、鎌田政秋、という人と3人。4寮は運動部の連中の合宿のような感じがして、食堂に近い方(付属棟)に野球部の連中、遠い方にラグビーやボートの連中がいた。いずれにしても私は何も知らずにこの寄宿舎に入れられたので、好むと好まざるとにかかわらず、ボートとラグビーをやらざるを得なかった」(要旨)わけである。日本ラグビー史が説く寄宿舎制度説が正鵠を射たものであることは、この岡野豪夫の記述を読めば「なるほど」と納得がいく。なお、同じように寄宿舎制度がラグビー部創始に結びついたケースとして指摘できるのは、慶應義塾に次ぐ日本で2番目のチーム、京都の旧制第三高等学校(以後三高)がある。