《陰の主役はE.B.クラーク》


 日本ラグビーの創始校慶應義塾が最初に対外試合の相手として選んだチームは横浜の外国人スポーツクラブYC&ACだった。1901(明治34)年12月7日のことである。それにしてもラグビー活動を始めたのが1899(明治32)年の秋というから、ざっと2年あまりで日本在留とはいえラグビーの本場、英国系チームへの挑戦とは驚きだが、それだけではない。チャレンジャーは蹴球部結成以前の同好クラブ合同(バーバリアン&敷島クラブ)チームである。怖いもの知らずとでもいうか、若者の特権を最大限に主張したようなメンバーだった。
 もっとも当時の日本国内でラグビーチームといえばYC&ACと神戸のKR&AC(神戸レガッタ&アスレチック・クラブ)の英国系2チームだけ。慶應義塾が対外試合を望むとすれば、好むと好まざるとにかかわらず横浜か神戸の外国人クラブとなる。必ずしも無謀な選択とは云いきれない環境だったことを指摘しておかなければならない。
 かくして「YC&ACに試合を申し込むことになった」(田辺九万三)わけだが、どうやら交渉は意外とスムーズに運んだようだ。もちろんYC&AC側にも申し出を受け入れる事情があった。試合といえばインターポートと称するKR&ACとの定期戦を除けば、たまに横浜港へ入港してくる英国海軍の軍艦チームぐらい。大学チームの誕生は願ってもない朗報だったともいえるだろう。
 さらにもう1点付け加えれば両サイドに関係のあったクラークの存在である。当時はまだ横浜在住(対戦時の1901年に東京・赤坂へ転居)だったうえ、彼自身がYC&ACのメンバーだったこと。仮にマネジャー役を務めていた猪熊隆三と森俊次郎が対戦交渉の主役であったとしても、塾生の知らないところでクラークとYC&ACが接触することは容易なことだった。東京と横浜という環境にあって、交通は、通信手段は…と思考を巡らせていくと、あまりにも順調すぎる交渉結果に、ついついクラークとYC&ACが結びついてしまうが、といって黒黄会、YC&ACにも当時の交渉経過を物語る史料は皆無だった。