《トライ1号とドロップゴール1号》


 慶應義塾とYC&ACとの第1戦では日本ラグビー史に残る歴史的な記録が生まれた。それは左のWTB塩田賢次郎の日本人トライ第1号である。慶應義塾がYC&ACとの定期戦で2度目の得点を記録するのは5年後の第7回定期戦(第2回以降、1年度2回対戦)。その間の対戦はすべてゼロ敗だっただけに、塩田賢次郎の初試合=初トライが当時の慶應義塾にとっては想像を絶するニュースであり、かつ貴重な記録だったことが、恩師クラークの心にも強烈な印象となって残っていたのだろう。
 慶應ラグビーについての記述が殆ど皆無のクラークではあるが、その恩師が珍しく関東協会発行の機関誌「ラグビー」(第2巻8号)に「Random Note for Rugger-men」と題する寄稿の中で、ユーモアたっぷりに塩田賢次郎のトライ第1号を語っている。貴重さの意味は異なるかもしれないが、機関誌にクラーク執筆の原稿が掲載されていたこと自体、珍重すべき出来事といえるのではないだろうか。ここに希少価値の高いクラーク原稿を再録した。
 「このプレーヤー(塩田)はどうにかしてボールを得、敵ゴールポストめがけて全速力で駆け出したのである。彼はなかなか速い走者で、付近にいた敵を駆け抜けゴールラインまでの間にはフルバックだけが残っていた。彼はいまだかつてトライをスコアしたことはなかったので、断然命にかけてもトライしようといわんばかりの剣幕でなおも走り続けた。フルバックは暫時接近するので、その正確なタックルを回避するにはどうしたらいいかと気にしているうちにすぐ間近かく寄ってしまった。ついに捕らわれるか逃げおおせるかの瞬間、彼は『SOKO DOKE! BAKAMONO』と割れるような大声でしかりつけた。この思いがけない出方に外(国)人側のフルバックは、度肝を抜かれ、かえって『誠にお邪魔を致しました』といわんばかりに獅子奮迅の士を通してしまい、この奇抜な嘘でない小話の勇士は緩々(ゆるゆる)とゴールポストの間に安々とトライをあげた。このようなばかばかしい話があるのかと思う方もありましょうが、興奮しているときには人は突飛なことをしでかすものです」
 おそらく原文は英文のはず。したがって関東協会の機関誌担当者による翻訳文かとも思われるが、日本ラグビー史(日本協会刊)でも「日本ラグビーの創始者」の項で上記のクラーク寄稿文を取上げ、冒頭で「クラーク一流のユーモラスな筆致で描かれている」とその記述を称えている。
 しかし、同じ日本ラグビー史が次の「『YOU EMPLOY JUDO!! 汝柔道を用いよ…云々』の項では、例の講談調について「いささか誇張に過ぎる稚気はともかくクラークが叱咤したとは信じがたい」と否定している点を付記しておく。
 さて次の主題はドロップゴール(DG)第1号。YC&ACとの定期戦も第7回を迎え、初めてホームグラウンドの三田綱町運動場が使われた。4年前に晴れて体育会加盟団体となった蹴球部にとっては最高の晴れ舞台だったが、チーム編成の点ではで大学、普通部生の混成チーム。第三者的発想では中学生を交えたチーム構成に不安を感じるのが一般的だが、ゲームでは何が起こるかわからない。
 試合は4−6の2点差で勝ち星なしの7連敗におわったが、日本人DG第1号による4点が記録されたのである。蹴球部にとってはYC&AC戦の初戦であげた塩田賢次郎の第1号トライによる得点から数えて5年ぶりの得点。それも懸念された少年宮川偕作(普通部4年)の離れ業である。
 チームメート田辺九万三は「敵25ヤード線内に攻め込んでスクラムとなった。ボールが味方に出た。筆者はブレークアップするために頭を上げたときに、宮川ハーフの小さい身体がスクラムの後ろを右に走ったと見えた瞬間ボールは高く飛んでクロッスバーを越えた。スクラムハーフによるドロップキックが見事に成功したのである。」(要旨)と百年史に綴っている。トライにしても、またDGにしてもラグビーの試合である以上、何時か、誰かによって第1号が記録されるのはごく自然の成り行きというものではあるが、それだけに最初の記録達成者になることは名誉なことといえるだろう。記録というものはそういうものであり、何事によらず第1号の記録達成者が珍重されるのは世の常といえるのである。