慶應ラグビーが大学の正式な組織である体育会への参加を承認されたのは1903(明治36)年のことである。塾内でのラグビー始動が1899(明治32)年晩秋というからすでに4年が経過していた。この間に同好会として活動していたバーバリアンや敷島クラブの幹事たちが直面した問題。それは組織の運営に要する経費の増大であった。①ボール購入費など用具にかかる諸経費 ②練習グラウンドの確保 ③YC&AC戦締結後は別途に選抜チーム経費と横浜往復の交通費──などなど。とくにYC&ACとの定期戦の実現は両同好会幹事たちに、組織を統一することで諸経費の削減が可能なことを教えてくれた。
体育会加盟当時はまだ塾生だった安藤復蔵によると「バーバリアン、敷島クラブに安藤復蔵,田宮弘太郎その他が加入してようやく部員がそろい、主将も選んで選手制度も出来あがり蹴球部として体育会の一部になった」(要旨)となる。六十年史、百年史とも蹴球部の成立と体育会加盟を伝える記述は、この安藤原稿を除いて他にはない。
ところで体育会加盟がもたらした経済面でのメリットとはどの程度のものだったのだろうか。例によって詳細を知るデータ、情報には欠けるが、わずかながらも六十年史が体育会からの補助金について伝えている。「体育会に入っても三十六年には八十余円,三十七年には二百円余り、それから少しづつ増加したが、ボール一つ買うにも苦労した」と安藤復蔵。また田辺九万三も「なにしろこの頃の部費は一年百六十何円かと覚えている。ボール一個が二十七、八円もしたのであるから、そうふんだんには使えなかった」と、当時はボールが貴重品だったことを強調しながら、間接的に補助金の少額を訴えている。
草創期の塾生たちを経済面で苦しめ、悩ませた楕円球だが、主役のラグビー競技と同様に、その用具のひとつであるボールも輸入品だった。舶来品が高価なのは当時も今もまったく変わりない。田辺九万三がボールについておもしろい記述を残している。
「ラグビー創設の当時、ボールは全く貴重品であった。初めて横浜のレンクルフォード商会から新品1個を購い求めたときには、嬉しくって嬉しくってその夜はボールを抱いて眠ったと大先輩の松岡正男氏が思い出を語られた事があった。レンクルフォード商会の取り扱っていたボールは『シルコック』社製であった、現在
日本で使われて居るボールは『ギルバート』社製造のものの型である。ラグビーボールは『シルコック』が最もポピュラーなものと考えていたが、英国へ行って驚いた。国際試合その他著名な試合に使われているボールは『ギルバート製』のものが最も多く、ボール製造業者の広告にも「シルコック」というのは見当たらない。調べてみたら靴とカバンの製造会社だった」(六十年史から)。
なお、
日本協会は2005年にギルバート社とボールサプライズ契約を結んでいる。
ボールにまつわる逸話はさておき、蹴球部の成立で慶應義塾にはいろいろ新しい制度が生まれた。21世紀のいまも脈々と生き続ける制度もあれば、戦前のラグビー終焉とともに慶應蹴球部では化石化していった残念な制度もある。
前者の代表としては部歌の制定だろう。なんでも安藤復蔵が普及活動で群馬県太田中学へ出向いたとき、即興で作った「白皚々の雪…」がいつの頃からか部歌として制度化されていった。発案者は不明だそうだが、試合直前にフィフティーンが円陣を組んでキャプテンソロに始まり後段を全員で斉唱する行為はメンバーの気持ちを一つにし、高揚するのに大きな役割を果たしているようだ。
ひとりの天才による産物を部歌の原点とするなら、もう一方の卒業生に贈るグラデュエート・キャップ(通称イートンキャップ)制はラグビー創始国に習った独特の制度だった。慶應義塾ではすでに途絶えてしまったこの制度。いまでは
日本協会に引き継がれて
日本代表キャップとして甦っているが、それについては後述するとして、ここではまず発祥の由来に触れてみる。
手がかりは第1回YC&AC戦に出場したメンバーたちが1901(明治34)年12月9日に三田のキャンパスで撮った記念写真(さきに触れた最古の写真を指す P58)にある。というのは塾生たちが無帽で写っているのに、クラークと田中銀之助の頭にはキャップが乗っている。彼らの母校
ケンブリッジ大学や
オックスフォード大学では古くからラグビー校の1st.XVキャップに習ってキャップ制度を採り入れていたそうだが、クラーク、田中銀之助のキャップ姿も、母校の習慣に習ってそれぞれのカレッジ卒業のさいに贈られたキャップの着用におよんだのだろう。結論からいえば蹴球部のイートンキャップ制は恩師たちのキャップ姿にヒントを得た
ケンブリッジ大学流の踏襲ということになる。
六十年史によると「慶應蹴球部のイートンキャップは山崎不二雄、安藤復蔵の合作」とある。おそらくキャップの立案者は記念撮影に同席し、蹴球部成立とともに初代主将となった山崎不二雄であり、キャップをデザインしたのは後に洋画家として身を立てた安藤復蔵だろう。
なお、慶應義塾のキャップ制度も戦前まで。戦後では1952(昭和27)年度の卒業生に目録が渡されたという話を耳にした記憶はあるが、キャップ制度が復活した事実はない。