外来スポーツの進歩、発展に欠かせないのが技術書である。
日本ラグビーの創始校慶應義塾でも「ルールブックによって検討しはじめたのは1907(明治40)年頃」(田辺九万三)とのこと。それまでは田中銀之助から学んだケンブリッジ流のラグビーがすべてだった。ケンブリッジといってもクラークはコーパス・クリスティー、田中銀之助はトリニティーホールと、それぞれの出身カレッジは異なる。ユニバーシティーという大きな組織の中では同じかもしれないが、カレッジはその大きな組織の中のそれぞれ独立した単位。カレッジ対抗ラグビーがあるように、厳密な尺度でクラーク、田中銀之助のラグビー観をはかれば多少なりとも違った点があったとみるのが自然だろう。塾生たちの意識の混乱を避ける意味で、つねにクラークが一歩下がった姿勢に終始したひとつの理由かもしれない。
それはともかく、ケンブリッジ流の慶應ラグビーに決定的な転換をもたらしたのが、クラークから贈られた一冊の技術書である。YC&ACと定期戦をはじめて7年が経過した。しかし戦績は勝利なしの10連敗。それも蹴球部が記録した得点はトライ1、DG1の計9点(スコア不明の第3戦を除く)。まことに無残な結果である。
そんな状況下の1908(明治38)年春、恩師クラークから蹴球部にNZオールブラックス主将D・ギャラハーの著書「コンプリート ラグビーフットボール」が届いた。リュウマチの悪化から右足切断を余儀なくされたクラークが療養の合間に愛読した1冊だろう。
田辺九万三がクラーク寄贈の技術書について綴っている。「オールブラックスがFWを七人としたフォーメーションで、英本国に遠征して三十二勝一敗という輝かしい戦績を挙げたことは、
日本にも報道されて吾々を瞠目させた。七人のFWとはどういう動きをするのだろうか、と好奇心をもって何とかして其の詳細を知りたいと念願していた」──と。